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十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=盗み=
第八戒④・気前よく
箴言6:6~11
大教理問答の問99の4で、「反対の義務が命じられている」と教えられているように、「盗んではならない」という戒めは、「気前よく与える」という義務でもあります。
盗むなは、多くは貧しいからですし、貧しくなるのは多くは自分に原因があります。箴言6章のこの個所は、通常、貧乏になるのは怠惰のためであることを教えています。福祉の制度が備わっている先進国では、特にそのように言うことができます。
この働くことですが、創世記の3章17~19節が示していますように、罪が人間に入ってからは、働くことが苦痛を伴うようになりました。しかし、堕落以前の人間は、働くことが使命であり(創世記2:15)、喜びでした(申命記16:15)から、働くことに充実感や喜びが全く失われたわけではありません。信仰のない人でも、働くことの満足感は保っています。
働くことの祝福について、次の点はキリスト者にとって重要です。天地創造の業を終えられた後の第7日目に、「神は御自分の仕事を完成された」(創世記2:2)として休まれました。わたしたちキリスト者も、6日間の働きの後休み、7日目に安息して礼拝を捧げます。この主の日に礼拝を捧げることで、神から6日間の働きを認めていただくことになります。信仰者の6日間の仕事の完成として、礼拝は欠かせません。
このように神が人に労働の機会を与えてくださることは、働く場所を積極的に求めなければならないことを意味します。旧約聖書のルツ記に記されていますように、ルツが落穂拾いをしたこと(ルツ2:4)、またボアズがルツの働きのためにいろいろと配慮したことは相応しいことでした。
そして、ルツはただ自分のためにだけ働いたのではなく、姑のナオミのためにもなされます。こうしたことは、旧約聖書において、神がイスラエルの民にレビ族の存在によって、彼らのために働いておられることを教えられました。
他の部族は十分の一を神に献げました。新約聖書の時代に、この十分の一が信仰者の献げ物の基準という明白な言葉は聖書にはありません。主イエスも十分の一ということに言及しておられますが(マタイ23:23)、当時は税と献金の区別はありませんでした。
教会が自分たちのためばかりでなく、他の教会のために、また教会の外の人々にも心を配る必要をパウロは教えています。
「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」(ガラテヤ6:10)。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」