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「小閑記」
アロンが聖所にはいる時は、さばきの胸当てにあるイスラエルの子たちの名をその胸に置き、主の前につねにおぼえなければならない。
=出エジプト28:29=
旧約聖書によりますと、イスラエルの大祭司がつけていた胸当てには12の宝石がちりばめてありました。イスラエルの12部族の名が、これらの石一つ一つに刻まれてありました。大祭司が神のみ前に出る時には、必ずこの胸当てをつけて、主が常にその民を覚えてくださるようにするためでした。
旧約時代において、神の民が大祭司の胸の石に刻まれていたように、新約の時代に於いては、神の民はイエス・キリストの胸に置かれてあります。主イエス・キリストは旧約の大祭司のように、手で造られた聖所にはお入りになりませんが、私たち一人一人のために父なる神にまみえるために、天にお入りくださいました。それにより神は、その民があたかも罪を犯したことがなかったかのように見て、その民(イエス・キリストを救い主と信じている者)を覚えてくださるのであります。神は、それを一つの民として(クリスチャン)、ご覧になっています。神はその民を教会の扉の中からご覧になるのではなく、イエス・キリストの胸からご覧になります。信仰者は主にあって一つなのです。
私たちキリストの民は、日々の出来事に一喜一憂したとしても、イエス・キリストのみ顔のご栄光と救いの御業の十字架の恵みを、深く、深く、その愛を深く思い、生活することを通して、神のご栄光を現わすなら、何と素晴らしいことでしょう。福音を信じるとは、救いの恵みを喜ぶことです。
「このように、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心ひかれてはならない」(コロサイ3:1~2)。
このみ言葉を、信仰の思いとしたいものです。
一つの霊に合わされて、われは進む。
われらの旅の終わりみえども、希望と期待を掲げながら、
闇と悩みを通り、死を通り、われはキリストへの道を行く。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」