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第96課 パウロも宣教活動とその計画
=15:14~33=
A. 異邦人宣教師としてのパウロの働き・・2・・
・・・15:14~21・・・3・・・
「このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕えのる
者となり、神の福音のために祭司の役を勧め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめ
られた、御旨にかなうささげ物とするためである」(15:16)。
ここで「仕える者」(ministere)と訳されている原語は「公務員」を表わす語である。しかし、この同じギリシャ語が「祭司」の職を表わすのによく用いられている(申命記1:8、へブル10:11)。もちろん、パウロの文字通りの祭司では決してない。彼の職務は祭司ではなく使徒職であった。全てのキリスト者が祭司であるという万人祭司の意味における場合を除いては、キリスト教教役者も祭司ではない(Ⅰペテロ2:9、黙示5:10)。しかし、ここの聖句は比喩的な表現なのである。
ここでは使徒パウロを祭司として述べている。全ての祭司たちは神に捧げるべき供え物を持たねばならない。そして次の聖句において、異邦人キリスト者がパウロの神に捧げる供え物であると言われている。文字通りでは、もちろん、異邦人たちが供え物でないのは、パウロが祭司でないのと同じである。供え物としての異邦人を語ることによって、中心的な真理が示されている。すなわち、罪の中に深く沈んでいた異邦人たちが聖なる捧げものとして、すなわち、聖霊によって清められた聖なる供え物として神に捧げられたのである。
「供え物が祭壇に供えられたとき、水やその他の方法で清められるように、私たちも聖霊の力によって、神への奉仕に相応しく、聖なるものとされたのである。これが、パウロが自分の働きの成功について語る時、常に省くことをしない大切な思想なのである。彼の宣教の業における成功を、器に過ぎない自分の力に帰することを決してしないで、常に真の創始者である神に帰しているのである。
この美しい聖句において私たちはキリスト教宣教者に帰せられる唯一の祭司性を見出すのである。罪のための供え物を捧げることが、彼らの職務ではなく、宗教教育によって、聖霊の働きにより、人々をして自分を生きた供え物として神に捧げるようにさせることこそが宣教者の任務なのである」(ホッジ)。
すべてのキリスト者が祭司であるという万人祭司性以外の意味において、福音の宣教者を祭司と呼ぶことは正しくない。聖書は信仰者が万人祭司であることを教えている。しかし、祭司の役をする特別は階層というのは信者の間にはない。ローマ・カトリック教会においては、宣教者は供え物を捧げる祭司となり、主の晩餐はミサの供え物となっているが、これは腐敗の一つであると言える。プロテスタントの中にも宣教者のことを祭司と呼ぼうとする傾向があるが、ローマ・カトリック教会と同じ誤りをしないように警戒しなくてはならない。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」