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「キリスト教百話」
問30 「キリスト教を信じたら、どんな良いことがあるのでしょうか」
答・・1・・
こういう質問を受けることがよくありますが、その場合知っていただきたいことは、クリスチャンは「キリスト教」と言う宗教、または「キリストの教え」を信じているのではないと言うことです。もちろんキリストの教えを無視しているわけではありません。と言うより、むしろキリストの教えに聞き従うことを最も大切にしているのです。
それは「教えそのもの」についてのことではなく、それがキリストが告げられた教えであるからです。キリストという言葉は名前ではなく、「救い主」と言う意味の言葉です。その救い主は「イエス・キリスト」というように、イエスという歴史上に現れた人物を「救い主」と信じる「信仰」によって言い表されている言葉であるのです。
ということから明らかなように、イエスと言う方を「救い主」として信じているからこそ、この方によって語られた教えを大切にしているのでありまして、当然、それがキリストに聞き従うということになるわけです。
ということは、信じて聞き従うことが、自分の救い主の言葉であるからこそのことでありまして、よく掲げてある格言警句集に記されている言葉を人生訓として重んじるというのとは違うのであります。その場合には「良いことが言われているなあ」と受け止めたり、それを実行に移すのは、自分が主体となってのことであります。その言葉を誰かがいっているとしても、その人に対面して、その人の人格的な触れ合いがあってのことではないのです。つまり、「あなたがおっしゃっておられるのですから、お言葉に従います」というような仕方で受け止めているわけではないのです。
しかし、キリストの教え、つまりキリストが語られた言葉に聞き従うということは「この方は私の救い主である」と信じてのことでありまして、言葉だけが単独に重んじられているのではないのです。クリスチャンという言葉を「キリスト教徒」と訳す人もいますが、前述したことからも明らかなように、これはむしろ「キリスト信徒」という方が正しいのです。
もともと「クリスチャン」という言葉は、「イエスのことをキリストと信じ、それを人々に宣べ伝えているやつらだ」という意味で使った言葉でありまして、キリストの名を呼ぶ者への呼称とされたことに発しています(使徒11:26)。新共同訳聖書ではこれを「キリスト者」と訳していますが、これがクリスチャンと言う者の内容をよく言い表しています。
つまりクリスチャンと言う者は「キリスト教」という言葉の総称される何かを信じているわけではなく、ナザレの人イエスをキリストと信じている者のことをいうのであります。そして、このキリストを信じて生きているということ自体が、良いことであるのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」