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十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=盗み=
第八戒⑤・所有する
ヨブ31:13~2、マルコ14:7~9
生産技術の発達、資源の有無、また市場競争などのために、富める国と貧しい国の格差が広がります。それはその国民にも影響を与えます。幸いなことに、敗戦後の日本の復興のためになされた努力の結果はめざましいもので、私たちはそれを享受しています。
しかし、そうでない国々が多くありますし、私たちの周囲にも、働く意思を持ちながら、生活の手段を失った人々もいます。そういう中で、私たちが働くことによって得ている収入を貯え、生活を楽しむために、使うことに後ろめたさを感じることはないでしょうか。
旧約聖書で神は、収穫の十分の一を神にささげることによって、神に感謝し、生産の手段を持たないレビ人もその恵みに与り、家族や奴隷をも含めて祭りを共に楽しむことを命じられた(申命記12章)ことは重要です。多く与えられた者は、それだけ気前よく用いることができます。ヨブは神から豊かに祝福を受けた人でした。彼は31章で語っていますように、助けを求める人々の求めに背を向けたことなく、7人の息子たちが順に家族を招いて宴会をすることを喜んでいました。
主イエスも、宴会に招かれたとき、招かれない貧しい人々がいるという理由で、その招きを断ることはありませんでした。カナの婚礼にも出席なさり、水をぶどう酒に変える奇跡をもって、その婚礼を祝福なさいました。
こうしたことから、貧しい人々を助けることは必要であり、それと同時に、神は人が楽しむことを良しとされました。
浪費はある種の盗みであることをすでに学びましたが、べタニアで、主イエスが食事の時に、一人の女性が高価なナルドの香油をイエスに注ぎました。人々は憤慨して、無駄使いだと言い、売って貧しい人々に施すことができたのにと言いました。その時、主は彼女を弁護して(マルコ14:7~9)、貧しい人々への同情はいつでもできるが、彼女が御自分にしてくれたことは、御自分の「埋葬の準備」あったと言われ、彼女が主の先のことについて理解をもっていることをお誉めになりました。
主は貧しい人々への援助を軽視なさったのではないことが分かりますが、喜びを現わすときは、自分に与えられていることを感謝するようお教えになられます。
ドウマ教授は、さらにもう一つの視点からこう指摘します。われわれは節約して、収入のある一定の割合を援助のために用いなければならないが、節約することで消費を抑えると、それだけ経済成長がマイナスとなり、結果的に失業者が増えるということになるというのです。そのことは最近のわが国にも当てはまります。
教会やNGOなどの援助活動に協力すると共に、一部を神への感謝をもって後ろめたい思いを持たず消費することも、また必要なことです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」