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「小閑記」
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
=マタイ6:19=
地上に宝をたくわえるということは、ものをただ単に倹約するということと同じではありません。貧しいということが、神に対して富み、かつ天に宝を持つように言うことと同じでないように、ものを所有することが、神がお持ちの富から引き離されるということと同じはありません。全ての農夫が農地を所有し、全ての漁師が船を、そしてすべての街の住民が富める通帳を持っていることは、払いきれない負債を持っているよりは、確かに喜びであり幸いであると言えましょう。でもそれで幸福でしょうか。
イエス様もお金を残しておられます。人々が荒れ野で十分食事をした時に、主は弟子たちに、無駄がないように残りの物を集めなさいとお命じになりました。
私たちも今、コロナ禍で、職を失い、大きな不安の中にあります。GO TOなになにという政策で、経済の活性化のためにいろいろの形で消費を促そうとしていますが、それは一時的なことで、何も残すことはないでしょう。無駄使いとは言いませんが、あくまでも一時的です。
しかし、地上に宝を蓄えるとなると、イエス様が本当に言われることはどのような意味があるかを、イエス様のなさったみ業を正しく理解するならば、「宝」と「たくわえる」という言葉に深い意味のあることが分かります。「宝」というのは、人が特に愛するものの一つではないでしょうか。それは、その人にとって人生を捕らえ、虜にしてしまうほどのものではないでしょうか。人を虜にする名誉、富は魅力的なものです。「宝」と「心」とは分けることが出来ません。地上の財産と心とは別々にすることの出来ない魔力を持っています。しかしもし、神様が私を愛し、慈しみの救いの恵みの中に招いてくださった感謝の思いを、人々への「宝」としてお返しできるとしたら、神の前に、人々の前に差し出せるのではないでしょうか。
この世で多くの財産を持っている少数の人々が、天に宝を持つために、その富を活用するなら、飢えと貧しさの生活から多くの人は解放されるでしょう。私たちにとって、大切なことは、分け合い、支え合う心と行動ではないでしょうか。神に対して富み、この世のものに心奪われることなく、物に執着しない信仰の心を「富」と見て、「宝」として持つことを知ることが出来たら、何と幸いなことでしょう。それをイエス様が私たちに求めていることであり、それを日常の生活の中で覚えさせようとしていることではないでしょうか。
秋に咲くきれいな小菊を見つけました。名古屋もう初冬です。
われらの希望は イエスのみ力によりて堅く、
神なき者は自らの貪欲と戦う。
苦しめるは彼ら、彼らの運命は恥とあざけりなり。
神、われらとともに、われら神とともにして、
神の祝福はわれらのものなり。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」