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「今月のことば」
種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。
=ルカ8:5=
私たちの信仰生活は、幸いにも、種まき人の業によって(伝道・宣教)によって、み言葉に接し、心に信じるという思いが芽生え、育ち、信仰者という名誉ある呼び名を頂く幸いを手にしています。しかし、私たちの全存在の底の底までご存知であられるお方、そのお方は言われました。
私たちは人々が踏み歩く道端のようで、種を全て鳥が食べてしまうか、または、わずかにある岩の上の土壌の種のようで、すべての種は枯れてしまうか、あるいは、いばらの茂った畑地のような暗闇の中でもがくか、あるいは、よき地にあって種は芽を出して育ち、実を結ぶかと言われるのです。そのようなある種の緊張感の中で歩める幸いを、心の中でかみしめたいとも思います。
多くの人はいろいろの形で、直接、間接、み言葉に聞き、接することは可能です。しかし、私たちの周りには、キリスト者はわずかです。種をまく者(伝道者、信者)が少ないためか、きちんと整えられた畑のままにしておいて、種をまいても、手入れを忘れてれしまっていないだろうか、また、まく種に力があっても、何らかの要因で、実を結ぶ神のみ言葉が実を結んでいないとするなら、これは、種まき人の方の責任というべきかもしれません。
しかし、私たちが負うべき責任は、種をまき続けなければならないのです。大海の中の一粒かもしれません。砂漠のような生き物のいないかのような、育たない地であるかもしれません。しかし、大海にも生きものがいますし、砂漠にも生き物はいます。私たち自身もどうでしたが、神様の救いの恵み、十字架の意味を知るまでは、欲望と快楽を生甲斐とし、信仰など無用という人もおられましょうし、私でもありました。でも、諦めて、伝えることを中止してはいけないのです。
私たち自身が、大海にまかれた種、砂漠の種、不信仰と欲望の日々の生活にまかれた渇いた地、心の砂漠だったのです。しかし誰かが語り、伝えていた言葉が心の片すみにあり、長い時間の中で育ち、信仰者・キリスト者という尊い名前を頂いているとするなら、何と幸いなことでしょう。人の目には見えない恵みの川のほとりに植えられた一本の柳の木であり、「・・・疲れ、夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどであり・・・、老いてしまった」者であっても、救いのみ手を求める方がいる限り、その手に希望の種をまきましょう。
私たちキリスト者の目の前には、日本に、世界に、そして家族に、種がまかれる時を待っている人々・大地があるのです。勇気をもって、希望をもって、「一人の種まき人」になろうではありませんか。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。
われらの救いの岩なる 君のみ名をたたえん、地の果てまで、
キリストこそ、隅のかしら石、教会はこの上に建てられぬ。
岩の上なるシオンを、風も雨も、火も、あわれにも打ちてむなし。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」