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第97課 パウロも宣教活動とその計画
=15:14~33=
A. 異邦人宣教師としてのパウロの働き・・1・・
・・・15:14~21・・・3・・・
「だから、わたしは神への奉仕については、キリスト・イエスにあって誇りうるのである」(15:17)。
パウロは神によって使徒とされ、また異邦人への伝道者とされ、さらに異邦人の回心のために努めたパウロの努力を、神が有効に用いてくださったので、パウロは本書に見られるような権威と確信とをもってローマにいるキリスト者を教える。「誇り」(glorying)は有罪的な人間的誇りを指すのではない。
それどころかパウロが誇りうる根拠を持つのは、ひとえにキリスト・イエスによるのである。結局パウロの信用はキリストに基づいている。キリストの僕であるから、信用があるのである。彼の誇りは神に奉仕することにあるのであって、彼自身の中にいかなるものに在るのではない。彼は自分の世的な業績や教育水準などについて誇っているのでなく、神への奉仕、すなわち、福音の宣教とそれに伴う聖霊の働きについて、彼は誇るのである。パウロの誇りは威張ることでも尊大であることでなく、謙虚な誇りなのである。それはパウロ自身の中にあるいかなるものにも基づく誇りではなく、すべて主に基づく誇りなのである。
「わたしは異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、ことばとわざ、しるしと不思議との力、聖霊に力によって、働かせて下さったことの他には、あえて何も語ろうとは思わない。こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルニコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた」(15:18~19)。パウロは18節で注意深く自分を誇るつもりは全くないことを説明した。彼はキリストが彼を通してなさったことの他はあえて何事も語ろうと述べてはいない。「彼は肉において、すなわち、彼自身に属する者については誇ろうとしない。だから、パウロは自分を誇らないで、キリストの御業を誇るのである。
パウロがここで人々を回心させるために神の中の単なる器に過ぎないものとして、自分を戒めしている点を注目したい。真の有効原因は贖い主に帰せられるべきだとしているのである。従ってこの聖句はパウロがキリストを今も人々の魂の上に働いておられるのであり、また今も忠実なキリストの福音の役者(えきしゃ)の伝道の業を有効にしておられる方であるとみている証拠である。そのような力を聖書著者たちは神以外の何者にも帰することはできないのである」(ボッジ)。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」