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「キリスト教百話」
問30 「キリスト教を信じたら、どんな良いことがあるのでしょうか」
答・・2・・
釈迦は「生老病死」という人間が抱えている四苦からの解脱を求めて出家したといわれていますが、その解脱とは解放であり、救いであるといってよろしいでしょう。この四苦を苦とも思わない人には、解脱も救いも無縁のことでありましょう。しかし、全ての人間が、四苦という言葉に代表されるような人間そのものの問題を抱えていることは事実でしょう。
しかも、それを自力では克服解決することが出来ないために、そういう問題に直面した時には「助けて~っ」と、助けを求めずにはおれない存在ではないでしょうか。自分自身の限界にぶつかってどうにもならない時、死に直面した時には、自ずから助けを求めるものです。
そういう時の「助け主」は同時に「救い主」でもありますが、自分にとってのこの助け主が存在する人は、その窮地から脱却できて、幸いであります。反対に助けを求めるにも誰を呼べばよいかわかっていない人、つまり自分にとっての助け主がいない人は、助けを求める声は宙には発せられはしますが、虚しく消えて行くしかありません。
「悩んでいる時にはわたしを呼びなさい」と言って助けてくれる「わたし」という呼ぶ相手を持っている人は幸いですが、そうでない人は幸いとは言えません。
以上のことから言って、自分にとっての助け主、または救い主があり、またそういう方を知っていることは、知っていないことより幸いであると言えます。キリストというのは、先述しましたような人名ではなく、役割を担う存在を言うのでありますから、何もイエスだけがキリストであると限定することはできなくて、「自分にとってはこの方が救い主だ」という人がいてもそれはそれで良いことと思います。
要するに一人一人が自分にとっての救い主が誰であるかがはっきりしておればよろしいわけです。その点で、イエスだけがキリストであると言って、他と競合するわけではありませんし、第一、誰が正真正銘のキリストの名に値するかを決められる判断基準があるわけではありません。ただ、イエスに出会った人は、「この方こそわたしの救い主である」と言わずにおれないものを覚えることによって、「イエス様、あなたは私の救い主です」と告白するに至っているのです。
「キリスト教を信じて良いこと」というより、「キリストと信じることが出来る方に出会って、イエス様をキリストとして信じることが出来ている」ということが何よりも良いことであるわけです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」