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「小閑記」
それだから、神の安息に入るべき約束が、まだ存続しているにもかかわらず、万一にも、入りそこなう者が、あなた方の中から出ることがないように、注意しようではないか。
=へブル4:1=
信仰生活は、月単位や年単位のものではなく、日々の生活の中にあります。そのために私たちの信仰生活には、浮き沈みや思いがけない出来事の遭遇で動揺し、時に信仰心が小さくなる経験もあります。誰もが何度となく経験しつつ、強められ、深められていくことに、出会ってきたことでしょう。ですから、決して無駄な歩みはありません。
さて、神のみ言葉の中には、二つの強い対象の上に築かれているかのように見えていながら、不思議な調和があります。
一方において、数々の心を励ます言葉、完全な救いと、開かれた扉、そして神が私たちを守ってくださるという、確かな約束があります。「誰も私たちを救い主のみ手から奪い取ることはできず、何物も、主イエス・キリストにある神の愛からわたしたちを離すことはできない」、とも記されています。
しかし、聖書の他の個所では、私たちの危険は大きいとも教えています。もし私たちが目的に達したいと願うならば、絶えず気を配り、祈り、戦い、魂をきよめ、恐れおののいて救いのために労し、神を敬わなければなりません。
この二つの似ても似つかない記述がどうして真実であり得るのでしょうか。前の部分は神様に関することであり、後の部分は私たち一人一人に関わることです。
動かせぬもの、確実なもの、決して失敗せぬものは、私たちの救い主であり、父であられる神の内にあります。神と共にあれば、私たちは常に安全でありますが、自分たちは、常に自分の傲慢と弱さを恐れつつ、謙虚でなければならないことを痛切に覚えなければならないのです。忘恩と傲慢こそ私たちの不信仰の原因です。すなわち、我が心に、内にあるからです。
この2020年を振り返り、神の恵みと己が弱さを顧みつつ、2021年を迎えたいものです。
主の御霊、われらの夜を破り、
真理の光もて、雲を払い給うまで、
われらの知識、知恵、視力をすべて
深き闇に包まれて横たわるなり。
み霊のみぞ、われらを神にかえり、われらの内によき働きを為したまえ。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」