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「キリスト教百話」
問30 「キリスト教を信じたら、どんな良いことがあるのでしょうか」
答・・3・・
人々は、いざという時に、助けを呼び求めますし、人生を生きるのにどういう生き方が最も望ましいかについて思いあぐねますが、まことの権威を持って「わたしを信じなさい」と呼びかけられる方に出会えるくらい良いこと、幸いなことはないのではないでしょうか。イエスをキリストと信じている者は、このことを良いとしているのであります。
「キリスト教を信じたら、どんな良いことがあるのでしょうか」という問いからこの項が始まったのですが、その場合「良いこと」というのはどういうことを言うのか、ということが一つの問題になるように思います。
と言うのは、例えば、江戸幕府時代キリシタンは禁制でありました。クリスチャンであることは国禁を犯すことでしたから、クリスチャンであることだけの理由で死刑に処せられました。国禁とするには様々な理由があったでしょうが、結果としてキリシタンは得体のしれない恐ろしいものであると言う印象が抱かれるようになりました。そういう時代に於いては、キリスト教を信じたら良いことがあるどころか、命まで取られてしまう恐ろしいことでありました。
しかし、明治6年になって切支丹禁制が撤廃されたあとでも、キリスト教が得体のしれない異国の宗教として白眼視され警戒されてきたことに変わりはありませんでした。ただし明治の開国となって異国の文化が入ってきたときに、それに伴って、西欧キリスト教会を継承してきたキリスト教文化と呼ばれる文化は歓迎されました。
教会音楽、女子教育、社会事業などがそうでした。しかし、キリスト教の信仰そのものは、異質的なものとして、受容されるには至りませんでした。昭和の初期から台頭してきた国粋主義により、特に日中戦争から太平洋戦争の時代には、対戦国の宗教であるという理由で白眼視され、弾圧さえ受けました。こういう時代の経過の中で、日本人としてクリスチャンになることの良さなどは先ずは思い浮かばなかったに違いありません。
戦後、キリスト教ブームと言われた時代がありましたが、そういう時でも若い女性がクリスチャンになることは結婚に差し支えるといって、親に反対されたものです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」