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世田谷通信(208)
猫草
208も書いてきて、何を書いたらいいのかここにきて立ち止まる。楽しいことや嬉しいことをそのまま書いていいのか、誰に対してかわからないが、気が引ける。かといって悲しいことや滅入ったことを拾い上げて書く気持ちにもならない。そんな中で気が付いたことがある。最近友人と連絡を取るとき、文章が短い。日本人は略語が得意だし・・いやそういうレベルではない。「了解しました」は「りょ」。OK自体が略語なのに、親しい仲間内なら「おけ」。オーケーぐらい縮めなくてもいいだろうにと思う。LINEなら文字すら使わずスタンプで済ませてしまう。便利なので自分もつい使う。通じるのでいいだろう、という安易さがある。
昔、作文で一文が長いから二つに分けろと赤で添削された記憶がある。冗長な文章が良くないのは事実。でも今はある程度、長いまとまった文章を書く練習も必要なのではないだろうか。添削はいくらでもできる。短文しか書けないと削りようもない。
近所に世田谷文学館という場所があり、世田谷ゆかりの作家たちの作品などを定期的に紹介している。手書きの原稿も展示してあるのだが、原稿用紙に万年筆で書いてあって、赤で修正されていたりするとガラスケース越しに見入ってしまう。元の文章を入替え、消して、また直して。パソコンだったら残らないその推敲の跡が思考のプロセスとして可視化できる。反故になったのもある。大きく×で原稿の半分ぐらいがカットされているのもある。なぜその言葉ではなくこの言葉に変えたのだろう。そしてまた戻している。きっと後半とつじつまが合わなくなったのだ。その思考の流れ。文豪と言われる人たちの修正だらけの原稿は見飽きない。また原稿用紙がいい。インクの色がいい。特注品を誂えてこだわっている作家あり、市販品で結構の作家もあり。それも興味深い。
書くこと。考えること。文字にすること。自分で書いたものを見ている自分は、一瞬前に考えていた自分よりも確実に少しだけ前に進んでいる。それに救われる。歩くのにも似ている。どこかに向かうには足を動かさなくてはいけない、移動した分、立ち止まっても、戻っても、それは進んだことになる。
文章が短くなっていることに不安を感じたのはそのためか。深く考える前の思考停止。「りょ」では推敲の余地がない。「了解しました」なのか「了解致しました」なのか「了解です」なのか、そもそも「了解」なのか、承知しました、わかりました、分かりました、承りました、もっと的確な表現はないのか。答え一つにもその相手との関係性を含めた、自分のあり方を問われている。それを面倒に感じるコミュニケーション。違和感の隙さえない速度。略語と顔文字の応酬も新しい文化なのか。言葉は生きている。人と同じ速度で。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」