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「小閑記」
「ひとりが蒔き、ひとりが刈る。わたしはあなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。
=ヨハネ4:37~38=
今、信仰者とされている私自身を考えてみる時、私の前に生き、働いていた多くのキリスト者たちがありました。神様は、その「先立ち人」のなしたことをも、心に留めておられます。もし、その「先立ち人」の働きがなされなかったなら、私たちキリスト者・信仰者は、神のみ前に集い、集まれてはいないでしょう。私たちの先人の信仰者の仕事は、時に小さく、弱々しく見えたとしても、教会で、先輩信者の方々の素朴な信仰の会話の中に、また、父や母が幼い子供に神様にある恵みを感謝して伝え祈るそのひとときに、子供たちの心に、神様への信仰の芽が蒔かれているとしたら、何と幸いな時でしょう。
ある時、教会の集まりの案内を一人の人に手渡した一枚が、その人に神様に向かう動機になったとすれば、小さな弱々しい働きではなく、「大いなる伝道」という特権に与った喜びの時でもあります。働き人が少ないと言われています。人の目にはそうであるかもしれません。一人のアダムから、一人のアブラハムから空の星、海の砂のように、この歴史の中に数知れない信仰者が産まれ、今、私たちがいるのは誠に奇跡であり、事実です。
一人一人が信仰者として、密やかに祈るひと時の祈りが、神様はお聞き届けくださることを信じて祈る時、一人の「先立ち人」とされるのです。一粒の実、一枚の案内が、神が共におられる集まりの神の国の実なのです。信じて為される働きは、時至れば、芽を出し、成長し、実を結ぶように神様の愛として叶うのです。
「たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」(ガラテヤ6:9)ことを喜び待つ、「先立ち人」であり続けましょう。
主イエスのみことばなれば
いかなることをも、われなさん。
みことばと、み霊によりて、導きたまわん。
みことばなれば、信仰によりて、
すべての働き、益とならんと、われは知るなり。 アーメン
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」