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「今月のことば」
もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
=へブル3:14=
2020年が終り、年が改まり1カ月が過ぎました。2021年に希望を託し、若い人たちは旅たちの備えの時です。日常の生活が始まり、日々を始めた方もおられるでしょう。厳しい状況下にあっても、困難と闘っている方もおられます。神様のお守りとお導きを心から祈らせていただきます。
全てのキリスト者は、その人生、その歩みが罪深く汚れている時のことを知っています。「反省」では取り返しのつかないことも知っています。なされたことは、なされたことで、それをどうすることもできません。しかし、私たちが、あらゆることをなし、もがいたとしても、解決しないという望みが絶れた時、目には見えない手が私たちの方へ向けられ、差し伸べられていたのです。
春の訪れを木々の枝が知り、小さな蕾となってその時を待っています。そのように私たち一人ひとりにも神様は備えて下さっているのです。それは「救い」という備えであり、「許し」という愛の恵みです。私たちは、しかし、この恵みに感動し、信仰の感謝の告白を神のみ前に捧げてきました。この最初に与えられた確信は、時と共に薄れ、弱まったと思う迷いの誘惑に捕らわれるなら、もう一度、この「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである」(へブル3:14)とのみ言葉を心に刻まれていることを、思い出しましょう。
信仰の日々は、言葉としては言いやすくても、その為すことは容易くないこともまた事実です。心の中にある実際の事実は、思いとは裏腹に、罪深く汚れています。だからこそ、神様の御霊の助けを乞い求め、人それぞれが「祈り人になりたい。愛の行為者に生きたい。奉仕がしたい。社会の一員でありたい」と励むのです。これが信仰者の姿です。
私たちの傍らには、キリストがおられます。その確信に生きる時、そこに喜びがあります。
わが手のわざは 主のおきてにかなうまじ。
わが熱心はためらわず、わが涙は、とこしえに流るるとも、
罪を贖うことを得じ。
主よ、主にのみ救いあり。 アーメン
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」