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「キリスト教百話」
問30 「キリスト教を信じたら、どんな良いことがあるのでしょうか」
答・・5・・
しかし、クリスチャンの数は日本の人口の1%そこそこです。キリシタン時代の方が遥かに多かったようです。それは大名の入信が家来全員の入信を促した結果でもあろうと推測しますが、それに比べ、信教の自由が保証され、新興宗教と呼ばれている諸宗教の信徒の数や活動の勢いなどが盛んであるのに、キリスト教の不振はどうしてかと思う一面があります。
キリシタンが禁制になった理由はいくつか挙げられると思いますが、その重要な一つは、権威の問題にあったのではないかと思います。つまり国の最高の支配者の権威以上の権威に従うことをキリシタンは重んじていたからです。目の上のたんこぶがあっては邪魔なのです。これを取り除く作業が、禁制弾圧でした。
この構造は大日本帝国憲法や教育勅語を盾として、「天皇とキリストとどちらが偉いか」とか「キリスト再臨の時には天皇も裁かれるのか」とかの字の悪い質問をして、権威の所在を問うという精神的踏み絵をさせたものでした。多神教世界ではこういう問題は起こりません。
ある人は「キリスト教は苛烈な宗教である」と言いました。確かに、キリストは、父である神の御心に従うことによって、十字架上で血を流し、命を献げたのですから、これは苛烈を極めていることです。しかし、ここは大切な点でもありますが、他者のために、命を投げ出すくらい愛の極まりの表現はないのでありまして、キリストの死によって、わたしたちが、これほど神によって生かされていることを知らされる時に、この苛烈さは、愛の極みに他ならないことを共に知らされるのであります。
イエス・キリストを知るということは、以上のことを知らされることでありまして、自分という者が、このように愛されている存在であることを知る喜びを禁じ得ないのであります。このことが、活けるキリストに出会うことによって得られる「良いこと」の全体を包むものである、ということができます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」