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十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=偽証=
第九戒④・隠すこと
箴言25:9~11、マタイ18:15~17
「偽証してはならない」からと言って、事実であれば何でも語ってよいわけではありません。事実を明らかにしないで黙っていること、真実を隠すということも、この戒めと関係があると言えます。
「守秘義務」という言葉を聞くことがあります。医師、牧師、弁護士、看護師、ソーシャルワーカーなどの職業に従事している人々は、その職業上で得た秘密があります。それを守ることが義務付けられています。こうした意味で事実を公にしないことは正しいことです。しかし、このような立場にある人々でも、秘密を一切明かしてはならないということではありません。
例えば、患者さんが危険な伝染病におかされている場合、本人にも周囲にも知らせなければなりません。あるいはテロのように、国民にとって危険がせまっているような
情報を得たとき、それを何等かに形で明らかにすることが必要になります。
大事なことは、あることが事実であるにしても、人について知ったことを周囲にしゃべるのは間違っています。「他人の秘密を漏らしてはならない」(箴言25:9)。偏見や誤解が含まれているかもしれませんし、それが更に間違った内容が加わって更に周囲に伝えられるかもしれないからです。それでも、限られた人が知った秘密で、そのことがその人の誤りを正すために必要なとき、忠告しなければなりません。それでも聞き入れないときには、教会員であれば、責任ある立場の人に内密に告げることは許されています(マタイ18:5)。
誤りを正し、悔い改めて兄弟を得ることは、教会の訓練(規律)として大事なことです。日本語に訳されている改革派教会「訓練」と「戒規」には牧会固有のことで、戒規においても重んじつつという大事な点が消されていることが、戒規を不成功に終わらせることになるかもしれません。
私たちの会話が互いに相手を建ち上げることを目指しています。それは必ずしも真実を隠すということとは同じではありません。例えば、本当の友人であれば、誤りを指摘してくれます。しかし、そうでない場合、あるいは敵のような立場にある人は、自分の誤りを指摘してくれることはありません。
ドウマ教授はこういう指摘をされます。「第九戒は私たちの隣人の幸い(well-being)のために労することを求めている。われわれは偽証してはならない。しかし、その人に反対しなければならないときでさえも、自分の言葉で、隣人を助けることができるならば、真実を証言することになる。真の友はビロードの手袋をつけない(うわべだけの優しさを現わさない)。われわれを傷つける言葉と第九戒とが常に対立するわけではないのである」。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」