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「小閑記」
弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりに・・・。
=マタイ21:6=
私たちが、イエス様がするようにとお命じになったとおりに従うならば、教えのうえでも日々の実際の生活においても、多くのことがもっと簡単になっていたことと思います。小さいことと思われることであっても、救い主のためにそれがなされる時は、時として偉大なものになります。一人の善意が、一つの言葉が世界を動かすこともあります。救い主のためにそれがなされる時、か弱い言葉が、行動が大きな力、輪になるのです。
聖書の中にこのような出来事は数多く記されています。厩のロバの綱を解いてイエス様のもとへ連れてくるだけで、主のみ栄として他の人々に、歓喜へと変わるということです。
キリスト者の生活が、キリスト教的と非キリスト教的な部分と別れても良いなどと言う考え方は成り立ちません。同時に、キリスト者が陥る危険は、独善的な偏狭に陥ることです。キリスト者は、常に、見られている立場に立つ時のみ、「地の塩、世の光」として神様はお用いになります。
正義の戦いの戦争ということのために、多くの人の命が失われ、悲惨と悲しみが生まれたことを思い出すとき、戦のために力を尽くす前に、「平和を作り出す」努力の大切さを「幸いである」と聖書は語ります。
世界はコロナ禍で多くの人の命を失っています。辛く悲しい現実です。その克服のために多くの科学者は研究し、多くの医療に関わる方々の献身的な働きが、世界の至る所でなされているのも事実です。私たちは「菌」を「悪いもの」と思ってしまいますが、多くの「菌」は生活を豊かにもしています。言うなれば、「菌」の恩恵を受けていることも事実です。生けるものの中に、「菌」も生き続けているのもまた事実です。「菌との共生」という文字が目につきます。この悲惨な出来事は人間世界ばかりではありません。生けるものの中に生き続けるのですが、人はそれの被害から身を守るために術を考え、克服するために、科学者たちは探求してきました。
しかし、不可能なことがありました。それが「罪の克服・償い」です。一人のキリスト者が、「愛と平和を願う祈りは、今もこれからも神様から命じられている、喜びのご命令として」、「何事をするにも・・・」と求められています。
目には見えない
心に迷いある時には 私たちの目には見えない
私たちを導きたもう 恵み深き御手を覚えよ
心が飢え渇く時には 私たちの目には見えない
私たちを養いたもう 恵み深き御手を覚えよ
心まで疲れた時には 私たちの目には見えない
恵み深き主の御手を覚えよ
「水野源三第三詩集」
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」