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「今月のことば」
神はわたしたちの罪のために、罪を知らなかったお方を罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためである。
=第二コリント5:21=
梅の便りから桜の便りへと変わり、季節の変化を感じさせてくれます。各地で新型コロナワクチンの接種が始まりました。明るいニュースでもあります。同時に梅や桜のお花見気分になり、つい外出したくなりそうですが、今暫く我慢いたしましょう。東北や関東地方には大きな地震が起きました。被災された方々には、心からお見舞い申し上げます。
何かを得るために、何かを犠牲にしなければなりません。しかし、私たちは、主イエス様が支払われた、罪の償いの代価がどれほどであるか計り知ることは不可能です。世の中は、物事の解決・決着をお金で決めてきました。しかし、その額が計り知れないものではありません。決着、双方が納得するから成り立つ事柄です。
では、私たちの罪の償いの額は、如何程でしょうか。支払い可能なものなのでしょうか。聖書は、人の富では「償いきれない、支払いは不可能である」と語っています。その罪の贖いの代価・値がこの「今月のことば」に示されています。それは、父なる神御自身が、私たちの罪の贖いの代価として、その独り子であられるイエス様を「贖い主・救い主」として償わなければならないほどのものなのです。
イエス様は、私たち一人ひとりの代わりに、神のみ前に生贄として、代価として御父の御前に出たというこの事実を、どのように受け入れ、認め、感謝するかを深く、深く思わされます。
イエス様が神の愛を、その苦難と死によって示されことは、神様の救いのご計画そのものであるとしたら、計り知れない救いの恵み、愛であるとしか表現できません。しかも、イエス様は私たちのために罪人とされ、それをもって、私たちがその贖いの死によって神の義を頂く者とされるとは、「神の愛・恩寵」としか言い表せません。しかし、この救いの恵みを、多くの人々は受け入れないのです。どうしてなのでしょうか・・・。到底信じられないことだからです。
この救いの恵みを、誰が語り、伝えるのでしょうか。それは救いの恵みに与っている私たち一人ひとり以外にいないのです。人は笑い、無視され、時に軽蔑の眼差しにさらされるでしょう。
しかし、私たちは「喜びを語り伝えることこそが最善の使命である」と信じる時、証しし、語り続けることを止めることができないのが信仰者の姿なのです。「人の生きる唯一の目的(喜び)は、神の栄光を現わすために、生きるにも死においても、真に喜ぶこと」と知っているからです。
全ての罪人が主を救い主と迎えた時、主は十字架の上からの血潮と死が私たちの罪を負い、私たちの罪のために支払ってくださったことによっていただいた義が私たち一人ひとりの信仰の基礎・生きる意義、目的になっていることを知るのです。
讃美歌515番
1 「十字架の血にて きよめぬれば、
来よとの御声(みこえ)をわれはきけり。
(おりかえし)
主よ、われは いまぞゆく、 十字架の血にて きよめたまえ。
2 よわきわれは みちからをえ、
この身の汚れを みな拭われん。
3 まごころもて せつにいのる、
心にみつるは 主のみめぐみ。
4 ほむべきかな わが主のあい
ああほむべきかな わが主のあい。 アーメン
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」