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十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=むさぼり=
第十戒①・むさぼるな
ヨシュア記7:1~26
第十戒について、ローマ教会とルーテル教会は、他の教会と違った区分をしています。彼らは第二戒の「刻んだ像を作ってはならないを第一戒に入れたことにしたために(カトリック要理」第17、18課参照)、第十戒を二つに分けて、第九戒「人の妻を望むなかれ」と第十戒「人の持ち物をみだりに望むなかれ」というように数を合わせています。これを見ても、いかに人為的であるかが分かります。
出エジプト記20章17節のように、隣人の家が先に来ても、申命記5章21節のように、隣人の妻が先に来ても、その節の全体の内容が変わるわけではありませんから、隣人に属するものを欲する、むさぼるという罪のことを禁じられていると考えることは極めて自然です。パウロもローマ7章7節で、「むさぼるな」という言葉によって、第十戒を一言で語っています。
この十戒のむさぼりの禁止命令と、第七戒(姦淫)そして第八戒(盗み)の行為の禁止命令との関係をどのように理解したらよいのでしょうか。
世俗的な考え方からすれば、何かを欲する願いをもって、不正な行動に移らないかぎり、罰せられる罪はない、というように考えられています。しかし、この第十戒では、願いを持つことそれ自体が厳しく問題にされていることが分かります。その理由は手に入れたいという願いをもつこと自体、既にそれを得ようとする計画が生まれていて、都合の良い機会が来るなら、それを実行しようとする用意ができているため、問題にされなければならないと考えられているからです。
エリコが陥落した時、アカンは言っています。「分捕物の中に一枚の美しいシリアルの上着、銀二百シケル、重さ五十シケルの金の延べ板があるのを見て、欲しくなって取りました。今もそれらはわたしの天幕の地下に銀を下に敷いて埋めてあります」(ヨシュア記7:21)。この彼の言葉から、「むさぼる」ということは、その欲したものに手を出すことを停止することができなかったことを意味しています。
言い換えると、この戒めが指摘していることは、隣人の家、妻、雇用されている人、あるいは家畜を欲する人は、それに手をださいではおれなくなることです。むさぼりが生ずるとこのようになるというのが、この戒めが何よりも意味していることです。
ドウマ教授は、この第十戒が禁じている「むさぼり」とは、気持ちと行動との中間的なものであると言えます。姦淫と盗みの行動は、すでに第七戒と第八戒で禁じられているため、この第十戒は、心に抱く計画とその計画を実行するためのステップの背後に存在するものを問題にしています。「今もっているもので満足しなさい」(へブル13:5)ということが積極的な勧めです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」