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「小閑記」
シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
=ルカ5:5=
このみ言葉は人間ペテロの心が現れているところです。イエス様への得も言えぬ感情が出ています。それは私たちの思いにも言えます。イエス様が救い主??、死から甦った??、そんなことを信じろというのですか??、クリスチャンは変わり者ですね・・・。このような思いと言葉に心折れることもあります。
あの時のペテロの悲しい不平は、私たちの今のキリスト者の間にはよく分かることです。伝道しても成功は少なく、失敗は多いと思われています。
父と母とは夜通しばかりでなく、生涯かけて子供たちの成長と健康を願い、神様を信じ、救われるために祈り、労苦するのに、子供たちは神様より離れて生きているのです。教会のキリスト者の教師たちは幼い子供たちをイエス様のみもとに連れて行こうとして心を砕き、何とかして連れて行こうと働きますが、その努力は虚しく終わるように思います。教会も多くの人にみ言葉を伝えようと努力しますが、教会の扉を開く人は少ないのです。ささげた労苦の報酬は少なく、心折れることはしばしばです。シモンの心にもそのような思いがあったかも知れません。
イエス様は、そのような落胆する者たち一人ひとりにもう一度、網を下ろさせようとなさいます。
病院の先生や看護師さんがもし治療や看護に疲れて諦めてしまったら・・・と思うことがあります。疲れても疲れても、そのお仕事に励んでいます。シモンの心に投げやりな思いがあったとしても、イエス様の声に従いました。結果は網は破れるほどの収穫を得たのです。
神様はあなたの業に報いよう、と言われます。時が至れば刈りとる時は来ます。多くのキリスト者は「主よ、来たりませ」と祈り、収穫を目指して種を蒔き続けます。永遠の朝が明ける時、神様はそのわざを祝福してくださいます。
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る」。 詩編126:5
信仰うすき者にそそがるる
主の恵みと愛と謙遜は
我らの 思いに過ぐるなり。
み足のもとにひれ伏して
罪びとの友なる君を知る。
われ心定めぬ、キリストよ
十字架にかかりし君のほか
われは知るまじ。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」