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問30 「キリスト教を信じたら、どんな良いことがあるのでしょうか」
答・・7・・
しかし、キリストは、世を去るに際して、次のように言われました。
「わたしは、平和(平安)をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14:27)。
これによれば、キリストが「平安」と言われたのは、単に常套の挨拶語してではなく、実質的に、呼び掛ける相手に対しての平安を約束し、かつ提供する当事者であったことを意味しています。
事実弟子のひとりペトロは、ローマ皇帝によるクリスチャン迫害の嵐の中で殉教の死を遂げましたし、そのほかの多くの信徒たちも殉教を厭いませんでした。こういう死に方を、心理学的には異常心理のなせる業と見る向きが無くはないとも思いますが、従容として死を受け止めたのは、彼らの内を平安が支配していたからに他ならないと思うのであります。
カール・ヒルティ―という人は、「平安は神から賜わる最大の贈物である」と言っています。人は財産を蓄え、堅固な家に住み、健康であり、あらゆる災害から守られることを願っています。そういう願いが実現するように、神仏への祈りもします。そういう要求に応えることを標榜していている宗教や占いなどにも心を寄せます。ご利益宗教と称せられるものが後を絶たないのもそのせいではないでしょうか。要するに、人間は、自分が手に入れて、それによって幸せが確保されると思うことは何でもするのです。
その幸せが生活の安定の基礎条件であることは言うまでもありませんが、それらの安定が人生の安定保証条件で十全の保証となるわけではありません。むしれ、自分がより頼むことができるとして確保したものが多ければ多いほど、逆にそれを失いはしないかと不安になったりするものです。だからと言って何も持たないほうが平安でおられるというものでありません。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」