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常に主を恐れる人は幸いである、心を頑なにする者は災いに陥る。
=箴言28:14=
信仰を持つキリスト者の人生や日常の生活は単に平穏で喜びに満ちていることばかりではありません。むしろ、恐れ、謹んでいなければなりません。聖書は喜ぶ人のみでなく、常に恐れる人をも「幸いである」と考えています。そのように神様の愛によって心が時間を用いて変えて下さるのは、信仰の恵みです。
私たちの救い主であり、父である神に関するお働きである限り、人間的は揺らいでも、常に私たちは揺るぎなく、平安であるのは当然です。
神はみ言葉によって約束なさったことは、決して私たちを失望させることはありません。ですからキリスト者は、完全な確かさと、祝福された平安をもって、全てを主のみ手にお任せすることを願い、信仰生活の中で、不思議ですが出来るのです。
とは言え現実には、私たちキリスト者が弱い人間として、罪人として考える時、私たちは常に不信と恐れを持つのは当然です。私たちの本来の性質は、サタン(悪)と協力して、「肉の欲・快楽」へと「常に迷いと滅びの広い道」へと誘われやすいのです。そればかりでなく、神が恵みによって下さった恵みの帳簿に、自ら利益を犠牲にする事柄を、あたかも幸いであるかのように勘違いして記入さえしていることに気づいていないのです。サタンの甘い誘惑の果実は魅力的で甘美なのです。
キリスト者は決して、自分を過信し頼ってはなりません。自分の信仰の覚醒を求め、日々を顧み、悔い改める思いに、そうして神の愛である信仰に支えられている思いを切に願い、追い求めている「信仰の旅人」であることを目標とし、誇りとするなら、何と幸いなことでしょう。
神は自分の信仰と力に頼らない、いと小さき者の力であられます。なぜなら、そこに神の摂理を知ることができるからです。
主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。
詩編34:9
われらを救い、力を得んために、
信仰はキリストの内に、すべてを見いださしむ。
主の送りたもう恵みを受け、主の十字架と冠とを、ともにわかたしむ。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」