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神さま、罪びとのわたしをおゆるしください。
=ルカ18:13=
日本人の感覚で一番理解されにくいのが「罪、罪人(つみびと)と言われています。「生活・文化・倫理観」の相違と言われていますが、聖書はこの「罪」を問い続ける宗教と言えましょう。
聖書は、私たちを神様から引き離し、全てのものの上に災いをもたらすものは、「罪」であると言います。罪の見出されない所には、神様と私たちの間を隔てる壁はありません。神様はそのみ言葉を通して、私たちが罪より離れ、命に至る道をお示し下さいました。それは、救い主であられるイエス様の十字架の上での罪人としての死、死をお破りになった甦り、永遠に生きたもう神の子イエス様を「救い主」と信じる信仰に招かれている道を歩み続ける道です。
この命への奇跡の恵みによって、私たち信じる者すべてに、救いと恵みが与えられるのです。
しかし、実に完全に、これは私たちが関与することなく、整えられ、備えられていても、私たちはどうしても、罪人としてキリストの身元に行かなければなりませんし、神様の前に、罪ある者、負債あることを告白しなければなりませんでした。これを認めることが、罪人から離れる唯一の道であります。それは、私たちは何者であり、何をなしてきたかの告白でもあります。「神さま、罪びとのわたしをおゆるしください」との告白へと導くのです。それは、この告白の心(信仰の心)が、救いの神殿、神の御国への保障としての「義と認められた者」(信仰義認)という恵みを頂き、神様から義なる者(身分)として宣言されるのです。
イエス様は私たちの罪のために、全くご自身をお与えになったのですから、私たちの全ての罪を取り去っていただけねばなりません。この宣言は「罪の残滓の中に生きていても、罪を犯す者であっても」命の書にイエス・キリストの代価のゆえにという、但し書きを頂いて、罪なき者と認めるというものであります。この恵みこそ、罪より遠ざかり、神へと導くのであります。キリストの救いのみ業に、愛に、誉れありではないでしょうか。
主は道にいませば、罪と死とより
みもとへ、逃るるほかなし。
天の父を見んとする者は、主よ、君によらでは、見るを得じ。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」