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涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
=詩編126:5=
この聖句に出会って60余年になりました。その時々の光になり、挫けそうになった時に希望を下さった大切な聖句になり、今はお便りの最初の言葉「つのぶえジャーナル」のタイトル聖句として、今までと同様に、これからも、私の心の支えとして用いることでしょう。
コロナ禍の今ばかりでなく、古の時代から世の終わりの希望の終末の時まで、神様が私たち一人ひとりをそのみ恵みのうちに受け入れ下さった愛に、今も後も、神様の「証し人として」「この救いの恵み」を伝える責任とキリストの十字架の下へ導きたいという望みを、私たちの心の内にかたち作りました。
そこでキリスト者が、このことの不成功を見ると、その心はしばしば病み、疑いで満たされます。特に、熱心で生真面目な信仰者や親たちは、自分の子供が気ままな生活をしているのを見ると、辛く感じてしまいがちです。
しかし、忘れてならないことがあります。それは、全ての権能をお持ちになる方を信ずる信仰を告白し、祈りをお聞きくださると約束下さった方を真実と告白し続ける大切さです。同時に、私たちは自分の不成功の有様を見ることは、最も強い責任感を持つ者を疑い慄かせる迷いへと誘うことです。
この無用な重荷の下で自分を過度に問い詰めているなら、この、「今月のことば」のみ言葉を心に思い浮かべてみませんか。
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。」(詩編126:5)というこの短いみ言葉を心の中に入れましょう。このみ言葉には、種と涙について語っていますが、神は何時かは良い収穫が、この涙から生じると言われています。
それでは、私たちは、日々、何事においても、涙を注ぎなさいとの言われる神様の涙とは、何でしょうか。怠惰や気まぐれでないことは確かです。そうです。実直な生活と姿勢、苦手であるかもしれない勤勉、細やかな気配り、そうして大胆な神様に生きる信仰の歩みです。「たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」のですから・・・。
主のために涙をもて種まきに出で行き、
損失はわが心を悲しませども、
われらの涙の日の終わる時、
主はよろこび迎えたまわん。
さればわれら、たのしみて、束を取り入るべし。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」