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問31 聖書には奇跡というしか言いようのない話が沢山出てきますが、クリスチャンはみなああいう話を信じているのですか。また、ああいう話を信じないなら、クリスチャンと言えないのでしょうか。
答・・1・・
確かに聖書には奇跡の話が沢山あります。特にキリスト教は奇跡から始まっていると言えるくらいです。それはキリストの誕生が乙女マリアによる処女降誕であるからです。最近では人工授精ということが可能ですから、いわゆる男女の性交がなされなくても出産ということはあり得ますが、二千年の昔にそんなことはあり得ませんから、処女降誕は信じられない、とされるわけです。
科学による知識では、こういうことは証明も説明も出来ませんから、誰にも納得されません。
夫となったヨセフは、まだ夫婦の交わりがなされていない婚約中にマリアが妊娠したらことを知って、密かに離縁しようとしたのを、夢の中で天使によってそれを禁じられたといいますから(マタイ1:18以下)、ヨセフにしてもマリアによる妊娠・出産は全く不可解なことであったに違いありません。
こういう不可解な信じられないことを何とか合理化しようとして、様々な説明がなされましたが、これはもともと説明しても埒(らち)があかないことなのです。何故かというと、マリアが身ごもったのは「聖霊によってであった」というのが、聖書記者の伝えているところであるからです。
「聖霊による受胎」などきいたこともなければ理解のしようもないことですから、まずは誰もが「そう言われたって、わたしには分かりません」とか「信じられません」とかいうのは当然です。
それと奇跡の中で一番理解できないとされているのは、キリストが5つのパンと2匹の魚でもって5千人以上もの人たちに食べさせ、しかもなお調べたら、12の籠に一杯あったという話です。「そんな話、信じられるか」というのが先ずは誰しもの発する声であろうと思います。そのほかにも、キリストが湖の上を歩かれたとか、生まれつき失明していた人を見えるようにされたとか、さらにはキリスト自身が死んで三日目に復活されたなど、数え上げれば旧新訳聖書全体に示されている奇跡物語は沢山あります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」