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すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。
義を行う者はいない。ひとりもいない。
=ローマ3:12=
そして御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
=第一ヨハネ1:7=
信仰への入り口は、この事実を認めるところから始まると、先見者は言います。それほど、この事実を認めることは私たちには難しいことなのです。そうして、それを公に告白することを、聖書は求めています。
私たちは、自らをこれほど徹底して悪いことを承認するのは困難でありますが、しかし、それにもかかわらず、真実なのです。神の光に照らしてみれば、私たちの命はくすぶっている焼け跡、煙れる残り火、傷ついた柱の様なものであります。私たちは罪と咎に死んで、悪は私たちの思いの奥深く浸みとおっております。悪はその汚れた心と手で私たちが考え、語り、為すべきところにおいて、巧みに繕い事をなすのです。
嫉妬、憎悪、利己心を生甲斐として追い求め、そのために努力する人は果たしているでしょうか。しかし個人であれ、国家であれ、民族であれ、「正義と平和と愛」の旗のもとにことを為してきたのもまた歴史であり、事実であります。しかし、多くの善意もありました。人々のために自らをささげ尽くしてこられた人々は数限りなくおられました。これもまた事実です。
科学は病を克服し、社会に幸いをもたらし、福祉に貢献し、文化は心豊かにしてきました.しかし、その科学が、人の手によって時に兵器に用いられ、多くの殺戮の悲惨を招いたのも歴史が物語っています。力と富は、悪を生み、人を倒します。
神の裁きは私たちの上にあります。神の真理を美しい言葉で悪用するとき、私たちは迷い出で、永遠の滅びと死に至るとみ言葉は語ります。
しかし、私たちの骨を組み立て、用いてことを為される方が、私たちが真に必要なものは何かをご存知なのです。それは「救い」です。「滅びからの救いです」。「絶望からの救いです」。それをもたらしてくださるお方は、ただお一人、「主イエス・キリストです」。この御方以外に歴史の中に、誰一人存在いたしません。認められない人もおられるでしょう。そう考えるのは、キリスト教そのものの傲慢と言う人もおられるでしょう。そう思われて当然です。
人の叡知に、そのようなものはありません。キリスト者の信仰の姿にもありません。しかし、神の子・イエス・キリストにはおありなのです。キリストの歩まれたその一足、ひと足を、その語られたみ言葉の一つ、ひとつをお確かめいただきたいと思います。
み恵みは、われに罪ありと感ぜしめ、
信ずることを、われに教えぬ。
信じてわれは、平和を得て、
今や、われ生く。今や、われ生く。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」