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問31 聖書には奇跡というしか言いようのない話が沢山出てきますが、クリスチャンはみなああいう話を信じているのですか。また、ああいう話を信じないなら、クリスチャンと言えないのでしょうか。
答・・2・・
こういう奇跡について、それを今日の人が納得できるように、合理的に説明する努力をした人は少なくありません。しかし、科学的知識にも矛盾しないような説明をした場合は「なーんだ、そういうことだったのか、それなら分かる」とはなるでしょうが、そういう解釈で、聖書記者が奇跡として書いた真意を正しく受け止めたことになるのか、という疑問は残ります。
一方、聖書に書いてあることはすべてその通りであって、疑い得ない事実である、と主張する人たちもいます。そう言う人たちによれば、人間は最初、土のちりでもって神様に造られたものであって、アダムとエバがそうであった、ということになります。
聖書にしるされたことはすべて事実であると主張する人たちにとっては、人間の「進化論」などは承認できないでしょう。
アメリカのある州では、進化論を教えることを禁じているくらいですから、聖書が伝えていることと違うことにはアレルギー反応を呈する人は少なくありません。「進化論」というのは実証を重んじる科学的検根拠に立っての思惟による理論ですから、それを覆す根拠のある理論が展開されればよい、と言う性質のものでもあります。
聖書を重んじるということが、科学的知識による類推や理論を一切否定して、奇跡物語をそのまま歴史的事実であるかのように言う人たちは、非科学的な時代遅れの人たちと言うそしりを免れ得ないでしょう。合理的が近代化であるとすれば、聖書の記事、特に奇跡物語などは、合理的であることを良しとする現代人には、前時代的な話として、何ら興味を引かないか一笑に付されて終わるでしょう。
もし、このことについての事実報道をするなら、「聖書に記されている奇跡を事実として信じた人たちに対し、今でも事実として信じている人たちがいます」というところまでであって、奇跡そのもののを事実としては報道しないでしょう。そんなことをしたら報道の客観性を疑われてしまうからです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」