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鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=むさぼり=
第十戒⑤・恵みによって
ローマ7:13~25
一応これで「十戒」の学びを終りにします。しかし、これまでの55回の学びを、キリスト教倫理に関係する学びの指針にしていただければ幸いです。
第十戒は行動だけでなく、欲望という心を問題にしている戒めであることを学びました。旧約聖書には心を問題にした箇所は幾つもあり、この第十戒だけが特別ではありません。例えば、ノアの洪水の前後、神は人についてこう見ておられます。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思いは計っているのを御覧になった」(創世記6:5)。洪水後に、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人は心に思うことは、幼い時から悪いのだ」(同8:21)。神は洪水後の人の思いは変わらないのを見ておられます。
ダビデも隠れた罪の存在を問題にしています。「知らずに犯す過ち、かくれた罪から、どうかわたしを清めてください」(詩編19:13)。また神だけが私たちを罪から守ることができるので、「神よ、わたしを究め、わたしのこころを知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください」(同139:23)と求めています。
ローマ教会は、罪を三つに分けます。無意識の罪、意識した罪、実行した罪の三つです。このうち無意識の罪は罪ではないとします。従って幼児には罪がないと主張します。しかし、聖書が人は全的に堕落していると教えていることから見て、これは誤りです。
十戒の要約として主イエスが、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という旧約聖書の申命記6章5節の言葉と、レビ記19章18節の「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい」を引用されました。(マタイ27:37~39)。
この規準を満足できる人はいません。ローマ教会の説明は、この世の人々の受けは良いでしょうが、意識しようがしまいが、神のこの求めに応えることができる人は、主イエスを除いて一人もいませんから、この点でも正しくありません。
私たち信仰者は、パウロと共にこう正直に告白します。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしたちを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。しかし、主イエス・キリストが救ってくださいましたから、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(同7:25)と告白することができます。
それはちょうど、十戒の前書きに記されていますように、十戒を完全に守ることができないとしても、守ろうとする熱心と力が、奴隷の国から導き出してくださった主なる神に対して生まれます。同じように、永遠の滅びから救い出してくださった主イエス・キリストがおられ、約束の地を受け継ぐことができるようにして下さったので、いっそう私たちは励むことができます!
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」