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いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。
=詩編92:1=
あなたは、自分の心の内を明け渡し、人に語ることは出来ますか。人の一番悲しく耐えられない時は、「孤独」と言えるでしょう。身の周りに大勢の人はいます。今は情報の時代と言われ、世界の出来事は瞬時に、リアルに手にすることは出来ます。国を離れ、家族に会えなくてもスマホで語り合うことは可能です。しかし、家があり、家族がいても言葉のない家は数多くあると言われています。また、親類縁者との関わりが消え、独りで生活されている方もおられます。言葉を交わすことの無い日々、それは耐えられません。
もし、私たちが神様のみ元に行って、寂しさ、苦しみ、心の悩みを、嘆きを訴えることが出来るとすれば、その上、何時でも歓迎されることを知るというのは、大変喜ばしいことと言えるのではないでしょうか。
人は不平を言う方が感謝するよりも易しいというのは真実です。多くの人は自分の人生を感謝するよりも、むしろ不平と不満の多い日々であると思うのもまた事実です。
それは、キリスト者であっても、多くの中にそれが見られます。暗い心の谷間を徘徊し、感謝の祈りを忘れ、不平と落胆の中に歩む、悲しい信仰者のおられることも事実です。教会に行き、み言葉の解き明かしを聞き、皆さんと讃美の歌声を上げている時でも、心の霧の中にいることを私は認めます。だからこそ、もう一度、このみ言葉に立ち返る機会としたいのです。一度,感謝する事を学び、知った者を神様はお見捨てになりません。必ず、神の恵みと愛を再びいただくために、心の中にある不信仰や不満から救い出し、連れ戻してくださいます。
孤独や孤立はキリスト者を弱くしますが、神の憐みが、あの十字架の死と黄泉の中からの復活の恵みへと導き返して下さったことを、聖霊のお働きの導きを頂いて主に道に立ち返りましょう。
詩人は告白いたしました。
わが命の音もたてずに進みゆき、新しき場面に出会う時、われは見る。
いかに主はわれをとらえて導きたもうかを。
すべて悩ましく、見知らず、暗く、思わるる時も、わずらい迫り、望みの失せる時も、主の光は、わが心を照らしたまいぬ。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」