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B スペインへの途次、ローマを訪れたいとするパウロの希望
・・・15:22~33・・・
「そこでわたしは、この仕事を済ませて彼らにこの実を手渡した後、あなたがたの所をとおって、イスパニヤに行こうと思う」(15:28)。
ここでパウロは異邦人に捧げられた献金を「実」と呼んでいる。通常、私たちはお金を実とは呼ばない。しかし、この場合にはそれは真に実なのである。野性のオリーブの枝は良いオリーブの木に接ぎ木されたことによって、今やキリスト者の自己中心的でない、果実を結んだのである。
すなわち、キリスト者の愛の結実なのである。キリスト者は自己中心的でない良き果実であった。パウロがエルサレムに持って帰るこのお金は、異邦人たちの真のキリスト教信仰と生活の証拠であったのである。お金と言うものは一人の人のキリスト教信仰の試金石であると言われている。もし彼の財布がキリストに向かって回心していないとすれば、その人の心が真に救われていることを疑いうる理由であるかもしれない。
真の救いは、真の実を生み出すのである。パウロはエルサレムに携えていく寄付献金は、そこにいる貧しいキリスト信者たちへの単なる物質的な援助に過ぎないのではない。それらの献金はパウロがかつて先導した異邦人たちの間における神のみ霊の力強い働きを証しているのである。
自己中心的でキリストの教会を経済的に支えていくことに真に消極的な現代の信仰者たちは、真剣に自分たちが本当に死と滅びから生命に移っているかどうかを考えてみなければならない。忠実に一貫して教会を支えていくことは、一人の人における真の信仰生活の証であると言わねばならない。
見苦しいと思われないだけで、出来るだけ少なく、しかも不承不承捧げようとする人々は、その生活の中に神のみ霊の働きが盛んであることを証しするものではない。教会において1ドル貨幣が献金袋に入れるべき自由な捧げものであると考えている人々は、その幾倍かを不必要な贅沢や楽しみに使うことを躊躇しない人たちであると言えよう。しかし、神は欺かれるような方ではないことを銘記しよう。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」