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十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=祈りについて=
祈りについて②・聞かれない祈り
マタイ6・5~7、ルカ1q8:9~15
施しをするとき、人からの報いではなく、神からの報いを信じることが大切であるように、祈りが神に聞かれることを信じるのにも、信仰が必要です。祈りを聞いている周囲の「人からの報い」を期待する祈りは、聞かれない祈りであると、主は5節でおっしゃっていました。
そして主は、人に聞かれることを願う祈りとして、二つの実例を挙げられました。その一つは偽善者の祈りであり、もう一つは異邦人の祈りです。
偽善者の祈りの特徴は、「人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」という言葉に見られます様に人の評価を期待する祈りです。人に向かって語る祈りとも言えます。会堂で祈る祈りが、皆、人に向かう祈りというわけではもちろんなく、どのような時の祈りでも、人からの賞賛を期待する祈りや、人に聞いてもらって、立派な祈りだというように思われることを期待した祈りは、神に聞かれないと主は言われました。例えば、読んでいただきましたルカによる福音書18章10節以下で、主はファリサイ派の人と徴税人の祈りについて対比して話されました。
ファリサイ派の祈りは、神殿の境内で周囲の人々に聞こえる祈りです。しかも、よく見ると、その語っている内容は自慢話であって、人に聞いてもらうための言葉であるか、自分に向かって語っているような祈りです。そこには神様がおられないかのようです。主は祈りが人に聞かれてはならないと言われているわけではありません。
主ご自身、あの大祭司の祈りをなさったとき、弟子たちが聞いている中で長い祈りをされました。私たちも祈祷会で祈るとき、お互いがその祈りを聞きます。その祈りを聞きながら、祈る人と一緒に祈ります。結果的に周囲の人々に聞こえますが、周囲の人々に向かって祈るわけではありません。天の父に向って祈ります。
他方、徴税人は遠くに立って顔を伏せて、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。独り言ではなく、彼は自分の罪を悲しみ、憐れみを信じて願い求めました。罪の赦しさえも求めていませんが、神がその祈りを聞かれ、赦しの平安を与えて下さったので、神に「義とされて家に帰った」と主は言われました。
主が聞かれない祈りのもう一つの例として挙げられたのが、異邦人の祈りです。その特徴は自分の功績に関心があり、「言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」祈りです。数年前、韓国の高神派の総会議長のお宅に3日ほど泊めていただいた時、早天祈祷会に出席しました。4時半~7時くらいでしたが、20分くらいの奨励があり、その後は各自がそれぞれ自由に祈り、6時半ころまで祈って帰っていく人々が多く、その後も祈っている人もいました。そこには「言葉数が多い祈り」と言う誘惑があります。しかし、三々五々静かに家路につくことで、神と共にその日の歩みが始まったという思いを与えられました。矢張り神中心なのです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」