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「小閑記」
まず、パリサイ人のパン種に気をつけなさい。
ルカ12-1=
新約聖書の福音書の中に、この「まず、パリサイ人のパン種に気をつけなさい」というイエス様が弟子たちに言われているところがありますが、それは、パリサイ人の生き方、人生観にはキリスト者にとって、何か特に危険で有害なものがあったに違いないことが分かります。しかし、この危険が何であるかに無神経になったり、あまり恐れないなら、この警告に今一度真剣に耳を傾けなければならない理由があります。
このパン種に練り込まれるのは、病んでしまった惰性的キリスト教にだけあると思い込みたがりますが、実は、日々生活している私たちの生活の中にも、それは容易く入ってくるものであることを忘れがちであります。
では、そのパリサイ主義が私たちにとって危険であるというのは何でありましょう。
それは、パリサイ人なる者は、ありもしない自分を、自分として通用させます。口で誇るものを心には持っていません。これがパリサイ人の本質的な特徴です。「偽善者」として、イエス様は言われます。それは確かに私たちが最も陥りやすいところでもあります。
自分のキリスト教に対して全く誠実であること、そして口で言うことを心に持つこと、これは私たちが日々の生活や信仰生活を省みる時、考えるよりも本当に困難なことであることが分かります。
私たちは実際の自分をより良く見せるようにと様々の方法を考えてしまう誘惑を受けます。私たちは内的命の虚しさを、強い言葉を用いたり、長い祈りでたびたび覆い隠そうとします。多くの場合、内的命が弱った時に、外的命を飾り立てて、それの繕いをしようとするのが通例だと考えてしまいがちです。沢山の大袈裟なキリスト教的な言葉に、私たちが全く誠実であったならば、話さなくても良かったのではないでしょうか。
「恵みと慈しみを追い求める人は、命と恵みと名誉を得る。自分の口と舌を守る人は、苦難から自分の魂を守る」(箴言21:21,23)。
全くイエスの言われる通りです。「まず、パリサイ人のパン種に気をつけなさい」は、内的な不真実を、偽りの霊的な言葉を通して宗教的な話と自分とを同一に扱うことは、外の暗きに行く一番確実な方法であります。そこで私たちは注意いたしましょう。
10月号の「主の祈り」の記述を参考になさることをお勧めいたします。
主なるみ言葉を用いよ。
すべてその他はあだなれば。
すべての思いと熱情を、この確かなる楯もてまもるべし。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」