[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
18 バラ博士の最期とマカルピン・・・1・・・
興味深い明治時代が終り、大正時代となって、バラ先生の健康も次第に衰え1918年(大正7)1月、先生の伝道地長野、諏訪、伊那、飯田は日本基督教会に移譲された。先生は1919年(大正8)6月、娘婿のR・E・マカルピン師に伴われて、帰米のため横浜港から数百人の友人、知己の見送りを受けて名残惜しく日本を去られた。日本伝道58年、誠に信仰の勇者の面影である。
翌年の1920年1月29日、米国バージニア州リッチモンド市ゲナパークで、R・E・マカルピン師の手厚い看護の下、遂に天に召されました。時に88歳、墓地はゼームス川を見下ろすハリウッドにある。
マカルピン師の活動は、1911年に休暇帰米を終えて1913年(大正2)2月米国より名古屋に帰られたが、同地方を中心に変わらぬ伝道奉仕を続けられた。同年9月17日には金城教会幼稚園を設置するために努力された。マカルピン師は幼児よりのキリスト教教育の必要性を痛感されて、中津川教会(現日本キリスト改革派中津川教会)にあっても渡辺 有歯科医師を中心にキリスト教幼稚園の建設をされ、岐阜県下に於けるキリスト教幼児教育の先鞭をつけられた。翌1914年(大正3)には、その日本に於ける宣教及びその他の業績によってテネシーのか-クスビルにあるサウスウエスタン・プレスビテリアン大学から神学博士の学位を受けられた
この年の7月28日、オーストリアは後退し暗殺事件からセルビアの開戦し、第一次世界大戦が起こった。このため米国も日本も軍需景気となり、日本のキリスト教会も順調は発展をした時期であった
翌年(1915年)の夏、マカルピン師は軽井沢のミッション会議で金城女学校の理事を継続され、1916年の朝鮮伝道団の代表に選ばれた。
当時、日本基督教会は朝鮮に伝道して、大正4年7月、京城で朝鮮中会建設式を行った。南長老教会ミッションも朝鮮伝道に関心をもち、この年の春、マカルピン師は3週間の予定で同地に旅行した。の旅行はマカルピン師にとっても興味深い、また有益なものであった。ミッションの支部や教会訪問、日本人の官吏やその他の人々との会合での談合、そして日本人やその他の集会での説教と、時は短く過ごされて行った。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」