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「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである」。
=ルカ10:23=
私たちはいろいろの物を見、感じ、考え、そして経験として心の支えとして生きています。そのために、怠惰になる人はいないのではないでしょうか。
キリスト者にとって最高の発見は、人生の中にキリストを見たことです。キリストの中にはすべてがありました。
主を別にして、私たちが見ようとし、所有しようとすることの全ては、イエス・キリストの愛と恵みに比べれば、塵、あくたであると思うでしょう。キリスト者は、その生涯をかけて聖書を読むことを生甲斐にすることを、多くの人は不思議に思われます。しかし、そこに何が書かれているか、一度でも読んだことがある人々でも、ああそういうことか・・・と、生涯の読み物と受け止められないままに、忘れ去られてしまいますが、そこに、何かがあると気づくとき、もっと知りたいと思い、そこに何か支えになるものがあると気づくとき、もう少し読んでみたいと思わせるのが聖書という書物なのです。
「救い」という言葉を私たちは知っています。しかし、主イエス・キリストを見出さなければ、何の値打ちもありません。しかし、その「救い」がイエス・キリストという人物によって裏打ちされたものであるとき、事は変わるのです。多くの方が十字架のネックレスをされているのを見ますが、単なる装飾品ではありません。
イエス・キリストの十字架の死という裏打ちが、キリストの愛と救いの深さが、我が人生の唯一の宝としたいと思う時、キリスト者は聖書を単なる読み物としては読みません。人々はクリスチャンが毎週礼拝に行く姿を見て、どうしてと不思議に思うでしょうが、そこには神様との出会いと霊的交わりがあり、喜びがあることを知っているから、心を整え、教会に行き礼拝に行くのです。
教会は建物です。しかし、そこには神の言葉があり、信仰者の感謝の祈りがあります。心の叫びがあります。永遠の命の約束があり、慰めがあり、安らぎがあります。
キリスト者が希望を失い、祈りと讃美が教会から消え去ることを喜ぶ者は,神に敵対する悪魔だけです。神に信頼する者の心をより弱める力で、いろいろの試みを仕掛けてきます。これから紅葉、行楽のシーズンです。貴重な日曜日、家族と楽しいひと時を過ごしたいと思うでしょう。しかしキリスト者は礼拝に行くのです。人はそれを窮屈な生き方と言うかもしれませんが、それでも行くのもまたキリスト者なのです。
私たちキリスト者は弱い存在です。内なる心も外なる体も弱りはて、聖書から心が離れ、心にみ言葉が響かず、弱りはてて祈ることすら出来なくなる者です。その弱さを知っているからこそ、聖書を手ばなさず、祈る心を下さいと願うのもまたキリスト者です。
励まし合い、支え合い共に祈り合おうではありませんか。「つのぶえジャーナル」は「祈りの場であり、祈りの友が集う」所です。お便りを送ってください。お待ちしています。
教会に行きましょう。聖書を読みましょう。そうして語り合いましょう。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」