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みなわたしを捨てて行った。どうか、彼らが、そのために責められることがないように。
=Ⅱテモテ4・16=
パウロのように真理を愛し、人々の救いのために生きた人、気高いキリスト者が、彼の味方に捨てられるようなことは、あり得ないだろうと考えられがちですが、彼もまた、彼が一番必要とする時に、彼らが離れ去るのを見なければなりませんでした。重い暗い人間模様です。しかし、信じ合うことは大切です。年をとり、ひとり放っておかれ、すべての人に忘れられ孤独の中に座っている自分の姿を・・・。キリスト者として、また良き友として、長い間の夫婦でも、ある時、人生の夕べとなり、相い別れる時は来ます。
パウロは言いました。「みなわたしを捨てて行った」。みなな・・・。パウロの使徒として生きた年月の中には、言い知れない悲しみや苦難も数多くあったことでしょう(どうぞパウロ書簡の末章をご参読されることをお勧めいたします)。
しかし、パウロから学ばなければならない大きなことは、彼がこれらすべてのことを、信仰者として許しの心で真実に対峙していることであります。「どうか、彼らが、そのために責められることがないように」と言います。このように言える人は何と幸いな人でしょう。私たちがすべての人を赦すことは、神様のみ心であり、愛の証であることを学んできました。その主イエス・キリストから人は去って行きました。
「わたしはあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた主を、どんなに不幸に合い、悲しみに打ちのめされても、「主イエス・キリスト」を真の友として愛し、信頼する信仰の姿で、日々を真剣に生きたいものです。
信仰の詩人は言います。
わたしは、ゲッセマネを思い起こします。ユダがどの様に主を裏切ったかを、ペテロがどのように主を知らないと言ったかを。
弟子たちはみな主を捨てて逃げ去ったかを。主がむち打たれたことを。いばらの冠を、かれらが主につばきをしたことを。また葦で主の首をたたいたことを。
主の手と足を釘で刺したことを。主の十字架の苦しみを。主の渇きを。主が「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたことを。
主イエス・キリストの愛こそ、パウロの祈りの言葉です。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」