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C パウロはローマのキリスト者たちの祈りを求めている。
・・・15:30~33・・・
「共に力をつくして、わたしたちのために神に祈ってほしい」
(15:30b)
「力を尽くして」と訳されているギリシャ語は、英語のagonize(苦悶させる)という語ができた語源であって、「必死に努力する」「悩み苦しむ」という意味であり、「深い関心もって」という意味でもある。私たちのせっかちで形式だけの祈りは、このような語では到底表現されることはできないからだる。深い霊的な熱心だけが、ここでパウロが述べているような祈りに私たちを導くのである。
「共に」という語に注目しなくてはならない。ローマのキリスト信者たちはパウロと共に力を尽くして祈らなければならないのである。パウロは艱難と危険の中を通り抜けるときには、ローマのキリスト信者たちも、祈りを通してパウロの苦難や危険に与らねばならないのである。
「すなわち、わたしがユダヤにおる不信の徒から救われ」(15:31A)。
これはパウロがローマのキリスト者たちに、彼のために祈るように求めている3つの事柄のうちの第一のものである。彼らはパウロがエルサレムに入る不信仰のユダヤ人たちの暴力と怒りから救われるように祈ることを求められている。パウロはこれからキリスト教が迫害されつつある地域に足を入れようとしている。
ステパノが石で打ち殺され、ヤコブが数年前に斬首されたのはエルサレムだったのだ。激しい迫害が鎮まっている間でも、厳しい反対は依然残っており、いつ何時再発するか分からなかった。パウロはユダヤ人たちを恐れなければならないことを知り尽くしていた。パウロの生涯を通じて、彼らは彼を迫害し殺害しようとしていたのである。
「そしてエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなるように」(16:31b)。
これがパウロがローマのキリスト者たちに、彼のために祈ってほしいともと求めている第二の事柄である。彼がエルサレムに行く目的の任務が無事に完了することである。このことのために彼は祈ってもらう必要があったのである。何故ならパウロに反対するのは非キリスト者のユダヤ人ばかりではなく、ユダヤ人キリスト者の間にも彼を疑いと冷たい目で見る人々がいたからである。
彼が異邦人たちに福音を宣べ伝えることに従事していたという事実は、狭量な心のユダヤ人たちに彼に対する偏見を持たせる結果を生み出している。「パウロはエルサレムへ行くことの目的である愛の業が、エルサレムのキリスト者たちによって快く受け入れられることを望んでいた。パウロはあまり快く思わない人々のために労してきたのである。彼はエルサレムのキリスト者たちを聖徒と呼んで、彼らのキリスト者としての性格を認めているのである。たとえ彼らが彼に不親切であっても、彼は彼らを聖徒と呼んで尊敬し、ローマのキリスト者たちに、エルサレムのキリスト者たちが彼の手にある親切(異邦人キリスト者からの援助金と親切)を快く受け入れてくれるよう祈ってほしいと求めているのである」(ホッジ)。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」