[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
18 バラ博士の最期とマカルピン・・・2・・・
1917年(大正6)、マカルピン師に忙しい仕事が起こってきた。この1月10日、金城女学校の校長であったチャーロット・タムソン女史が帰米中結婚したとの知らせがあったので、マカルピン師は学校に移転して勤務をとるということになった。そのため11歳半のゼームス・マカルピン君は母親の手元から離れて、4月、神戸のカナデアンスクールに入学することになった。校務の運営のため、授業のためにマカルピン夫妻は天手古舞の忙しさに追われたが、マカルピン夫人は夫を勇気づけ励まして、この困難を切り抜けることが出来た。
そうして9月17日、L・C・M・スマイス宣教師が校長に就任してマカルピン師夫妻は、はじめて重荷を下ろすことが出来た。
この頃、第一次世界大戦は終わって、帝政ロシアに革命が起きた。翌大正7年(1918)には、ドイツも革命で皇帝は退位し共和制を宣言し、日本国内も不景気で米騒動が発生するという世相であった。伝道の働きは連日のように忙しく、9月16日には津島第三中学で毎週バイブルクラスを開いて有志の生徒に聖書、英語、讃美歌指導を開くことになった。偶像の町津島に福音を宣べ伝えるために、こうした方法も、また大切なことであった。
1919年(大正8)6月、前記のバラ先生の健康のために休暇帰国し、バラ先生の最後を看取り、1920年(大正9)10月15日、再び日本に帰り、翌大正10年夏、ミッションの都合で高知県の須崎町に移ることになった。高知県の西南部の須崎、久礼、窪川、中村、宿毛と交通不便な、また危険の多い道路を自転車や徒歩で通って伝道した。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」