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鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=天にまします=
呼び掛け① わたしたちの父
マタイ6・9、ヨハネ15:1~8
マタイによる福音書に記されているように、主イエスは弟子たちに祈りとその内容を教えられました。特に「主の祈り」と呼ばれるものがそれで、弟子たちが祈るように教えられた祈りですから、「弟子たちの」祈りと呼ばれてもよいのかもしれませんが、そうではなく「主の」祈りと呼ばれてきました。
主が教えてくださった祈りの内容ですから、御父はこの祈りを必ず聞いてくださるはずだと言うことが出来ます。また、ヨハネによる福音書の15章5節に記されていますように、ぶどうの木に連なる枝のように御子に連なっている私たち信者が、今では神の右に座して執り成してくださるキリスト御自身にあって祈るのですから、私たちキリスト者の主の祈りが、聞かれないはずがありません。このように二重の意味で必ず聞いていただけます。
さて、この祈りの呼び掛けの言葉「天にましますわれらの父よ」は、原文では、日本語の順序とは逆で、「父よ、われらの、天にいます」という順序になっています。「われらの父」が「天にいます」の先に来ます。
この「われらの父よ」から、第一に教えられたことは、「わが父よ」ではないということです。「わたしの父よ」ではなく、「わたしたちの父よ」という呼び掛けです。
「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6:6)と個人の祈りを教えられた主は、そのすぐ後の9節では「われらの父よ」と複数で呼びかけるようにお命じになられたのは、大事な理由があるからです。
その理由は、私たちが、一人で信仰生活をするためにキリスト者になったのではないということです。信者たちの交わりに、教会の交わりに加えられるために信仰が与えられたということです。このことを主の祈りの呼び掛けの言葉は教えています。私たちに入ってきた罪の性質は、自分だけで満足する生活をしたいという傾向をもちます。共同の祈りを好みません。しかし、キリストを信じるということ、その人が救われることによって、「われらの父」に互いに連なることです。
もちろん個人の祈りが必要です。しかし、個人の祈りにしても、「われらの父よ」と祈る時、個人主義は間違いであることを教えています。教会の礼拝や祈祷会の交わりに加わらないことは、主の祈りに矛盾することになります。私たちはキリストを信じることで、初めて父なる神を信じるようになりました。主が「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父を知ることになる」(ヨハネ14:7)と言われている通りです。私たちはその父を「われらの父よ」と呼びます。そのため、この呼びかけの言葉は、キリストの体に結び合わされている平安を私たちに自覚させてくれます。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」