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=15:14~33=
C パウロはローマのキリスト者たちの祈りを求めている。
・・・15:30~33・・・
「また、神の御旨により、喜びをもってあなたがたの所に行き、共に慰め合うことができるように祈ってもらいたい」(15:32)。
これがパウロが祈ってもらいたい第三の事柄である。
「パウロはローマにいるキリスト者たちと会うことを切に望んでいるかのようである。彼は戦いと働きの生活からの一時の休息として、このことを望んでいるのである。エルサレムでは不信のユダヤ人たちに取り囲まれ、ユダヤ主義キリスト者たちに悩まされ、その他の多くの場所では諸教会への心づかいで重荷を負わされていた。しかし、ローマは彼にとって憩いの地であって、働きの地ではなく、そこで彼はさらに遠くの地における使徒としての宣教の業の続行のために、その力を蓄えることを願っていたのである(ホッ ジ)。
使徒パウロの働きは、好ましいと思われる環境下にあっても、困難があったと考えられる。そして特に、友人または支持者であるはずの人々による反対に耐えることに勝って難しく辛いことはなかった。パウロは経験から、世からの反対でなく、教会内の人々からの反対の苦しみの味をよく知っていた。ローマ訪問をそのような苦しみながらのしばしの憩いの時として待ち望んでいたことは疑いのないことである。 それで、彼はローマのキリスト者たちに、喜びを持って彼らのところに行くことが出来るように、祈ってほしいと求めたのである。
「どうか、平和の神があなた方一同と共にいますように、アーメン」(15:33)
これがローマのキリスト者たちのために、パウロが神に捧げる祈りである。それは短い祈りであるが、多くのことを含んだ祈りである。『「平和の神」。神がお与えになる平和、平安は、魂の完全な祝福のために必要な全ての恵みを含んでいる」』(ホッジ)。
キリスト教は平和の神を人々の下にもたらす唯一の宗教である。キリスト教はそれをするために、まず第一に人々を神との平和に入らせることによって始めるのである(ローマ5:1)。イエス・キリストの血と正義によって、人と神との間の恐るべき敵意が取り除かれ、罪人は神と和解していただけるのである。
このことを基盤として、神の平和が人間の生活の中に来るのである。そして人は罪を憎むようになり、この世・肉・悪との激しい闘争状態に入る。しかし、その闘争を通じて、人は神の平和を得るのである。福音は私たちに戦いよりの解放を約束はしない。しかし、それは私たちに生涯を通しての神の平和を約束するのである。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」