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鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=天にまします=
呼び掛け② 父なる神
マタイ23:1~13
主の祈りは、呼び掛けと祈願、そして結びの言葉の三つからなっています。「天にましますわれらの父よ」がその呼び掛けの言葉です。今回はその「父よ」について理解を深めたいと思います。
旧約聖書は言うまでもなく、新約聖書も、祈りは父なる神に向かって捧げるものと教えています。罪人である私たちは父なる神に近づくことが出来せんから、御子を通して御父に祈ります。そして御父の御心に適った祈りが出来ませんので、それが出来るように聖霊の助けを受けて御言葉に教えられて祈ります。このように御父に向って、御子を通して聖霊を受けて祈ります。そのため、三位一体の神は、私たちが祈りが出来るよう力を結集して励まして下さるので、祈りは神との豊かな交わりになることが分かります。
「父」なる神に祈ることを考える時、ウエストミンスター大教理問答の189問には、「父としての神の善意への確信と関心、畏敬の念、その他に子供らしい気持ち」が与えられると語っています。「父よ」と呼ぶ時、深い信頼感が与えられます。それは地上の肉親の父が与えるものとは似ていますが、それ以上のものであるということが出来ます。
その理由は、主イエスが群衆と弟子たちに向かってお教えになったマタイによる福音書23章9節の意味を理解すると分かります。主は、ファリサイ派の人々の教えには耳を傾ける必要はあるが、彼らの行いを見習ってはならないと教えられた後で、こうおっしゃいました。「また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」。この言葉を見ますと、肉親の父を父と呼んではならないと言われているように聞こえますが、もちろん、そうではありません。主イエスが第五戒の「父母を敬え」に矛盾するようなことをおっしゃっているはずがありません。
それでは主イエスが天の父だけを父と呼ぶようにと、言われた理由はどこにあるのだろうかということです。それは私たちに信仰を教えてくれた信仰の家族、つまり、教会が第一の家族だということです。教会が第一の家族で、その父だから、肉親の家族以上に教会において父なる神を重んずるように、と言われたのです。
年賀状の季節が終わりましたが、四国の一人の友人が電話でこんな愚痴を漏らしていました。彼は友人から指摘されたと言っていましたが、同感だから私に語ってくれたのだと思います。牧師たちの年賀状は自分の家族のことは書いてあるが、神様のこと、教会のことには一言の言及もないものがあるのはどうしたのかと言うのです。
私たちの天の父が優先されることを契約の子供たちに教えるのは、父親が天の父を第一として生き、父親以上に影響を与える母親が御父を第一とする手本を示さなければならないということです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」