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求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
=マタイ7:7=
私たちが神様のもとへ、何かを願いに行くとき、誰も開けてくれない閉じられた戸を叩くのでもなく、私たちが、外にいることを望む心の狭い人びとの所へ行くのでもありません。否、私たちは、私たちを迎えに使いをよこされ、招いて、私たちに祈ることを希望を示し教えて、必ず得させて下さると約束してくださったお方の所に行くのです。
多くのクリスチャンが、祈りは命令されたものであり、神が私たちに負わせたもうた義務・重荷である、と考えがちです。ですが、そうではありません。祈りは、私たちが神様から頂き、見いだす霊的交わりの時です。心に神の愛と憐みを頂きたい、助けを頂いきたいと願う、欠かせない大切な道なのであります。祈りは「くびき」ではなく、「翼」です。義務ではなく「権利」であります。
この世の全ての戸口が私たちに閉じられていると思う時、全ての道が閉ざされ、閉じられたと思ってしまう時、その時こそ、私たちは神様に心を向け、神様のみ前に出て、私たちは素直に心を打ち明け、日々の、人生で起こることをお話しする時です。罪の赦し、日々の仕事の大変さ、明日の、いや今日の食事のこと、健康や家族との出来事など、全てを打ち明ける時なのです。
昨年も多くの自死者が出ました。未遂もありました。その方々のお声の多くが、相談する人がいない。話し相手がいない。相談しても裏切られたという訴えが、語られています。相談所の窓口はありますが、多くの人がそこを訪ね、力を得ているのも事実です。親切に長年にわたり相談員として活動されている方も大勢おります。感謝なことです。
救いと光の本当の窓口は、イエス様に出会って心開かれたキリスト者であり、教会でなければならないのでしょう。「地の塩、世の光」として。
教会の建物には十字架を掲げているのですから・・・。
道を求むる旅人われに 愛とみたまは なぐさめなり
主よ、旅路を終わるまで わが友、わが守りとなりて導きたまえ。
「あなたがわたしを呼ばわり、来て、私に祈る。わたしはあなたがたの祈りを聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会う」(エレミヤ29:12~14)。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」