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十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=天にまします=
呼び掛け③ 天にいます
ヘブライ12:1~3
主の祈りにおける呼び掛けの言葉について考えています。原文では「父よ」、「われらの」に続いて、第三に、「天にまします」という言葉になっています。
この「天にまします」の「天」は、主の祈りの中の第三の祈りの言葉の中にも出てきます。すなわち、「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」(10)の「天」です。これはギリシャ語では「ウーラノス」という言葉なのですが、マタイによる福音書6章9節の「呼びかけ」の言葉では、「天」は複数形であるのに対して、10節の第三の祈りの「天になるごとく」の「天」は、単数であるという違いがあります。
呼びかけの言葉のなかの複数であるのは、聖書では「天」が、雲が浮かんでいる大空の天、星がきらめいている宇宙の天、そして、神の霊的な住まいのである天という三つの天に言及しているため、呼びかけの言葉の「天」が複数形で表現されているのは、三つの諸々に天を支配しておられる父なる神への呼びかけを意味しているからです。
父なる神がこのように見える世界と見えない世界を支配しておられることを知っている必要があります。悪魔も見える世界と見えない世界に挑戦してきます。しかし、キリストの勝利はこの両面の勝利です。十字架も復活も昇天も、そして神の右に着かれたことも両面の勝利を意味します。その中でも、大事なことは悪の霊との戦いの勝利です。なぜなら、パウロは、エフェソの信徒への手紙の6章12節で、こう語っているからです。
「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするのではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするのです」。
悪霊の頭である悪魔と地上で戦い、主イエスは天に昇られ、神の右に座してくださったことが勝利です。しかし、戦いは終わったわけではなく、最後に死を完全に滅ばすことになりますが、その実現は終末を待たなければなりません。しかし、その勝利は保証されています。その根拠が、「恥をもいとわないで、十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになった」(ヘブライ12:2)ことにあります。
そのため、主イエスから教えられたときに比べ、私たちは、天の父の支配に対して、一段と確かな信頼を持つことが出来ます。
そして、それだけでなく、目を天に向けて祈る時、すでに世を去った信仰の先駆者たちが私たちの祈りを聞いて、声を合わせて共に祈っていて下さることも知らされています。
「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている」(ヘブライ12;1)ことを知るからです。従って、この呼びかけの言葉には父なる神への深い信頼があります。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」