[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御名=
第一の祈り①・神を知る
詩編51:17、ヨハネ17:1~8
最近、犬を飼っている人が多くなったそうです。そう言われて見ますと、朝夕、教会の近所も小さな犬を連れて散歩している人々を特に多く見かけるようになりました。またロボットが次第に巧妙になってきて、コンピューターの進歩のお陰で、ある程度の反応を示すように制御される犬のロボットまで登場してきました。人に癒しを与えるようになるということで人気があるようです。
しかし、人はなぜ癒しに欠けているのでしょう。また、本当の癒しはどこから来るのでしょう。それは人が神によって造られたのに、神を無視して、癒しを失ったのです。神は人を、思い付きからではなく、深い配慮をもって造られました(創世記1:26~27)。従って、人は自分を造ってくださった神を知ることで、自分の目的を知りますから、どうしても神との交わりの回復が必要です。その交わりが生まれたとき、本当の癒しが与えられます。芸術や自然や科学も神の作品の一つですから、そこに安らぎがあるのは当然ですが、その安らぎは神を直接知ることから来る安らぎに比べれば、あくまで間接的な安らぎです。
人は神から離れては、本当の癒しや平安はありません。それで、ダビデは、詩編でこのように、神が「唇を開いてくださることで、神を讃美することができます」と言います。なぜなら、人間の性質は罪の影響を受けているため、神を崇めるよりも、むしろ自分自身を崇めることを願うからです。
神を知らずに、崇めることはできません。しかし、大教理問答の190問の答えは、まず私たちが、「神を正しく崇めることのできない無能力と無気力を認める」必要があるという現実について語ります。
そこで、神の御名を崇められるために、この「無力と無気力」を少しでもとり除いて、神を崇める能力と気力が強化されるために、御子イエス・キリストを知ることが必要です。そもそも罪を犯して堕落したアダムとエバに対する救いの約束(創世記3:15)の成就として、イエス・キリストがこの世に来られ、アダム以来の選民の罪の償いのために十字架で死なれ、復活してくださいました。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」