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「小閑記」
過越しの祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせてラザロのいた所である。
=ヨハネ12:1=
キリスト者にとって、「ベタニヤ」という名には不思議ですが、心を引く力があります。その町ではなく、その町の中の特別な家庭にです。キリスト教の全歴史を通して、そのような家庭を持つことは、この世で最大の「証の場」だと考える人は数多くおられます。私たちも周りにおられるよい家庭(家族)に出会う時、嬉しい思いになりますが、それはその通りですが、聖書の中でのこの家庭は、その「真のべタニヤ」だと言えるでしょう。
この聖書に登場する「家庭」をキリスト者は、その家をそのように呼ぶことに誰一人疑う人はいないでしょう。それはイエス様がおいでになったからです。その家庭では、イエス様は何時でも歓迎されました。ラザロとラザロの姉妹たちにとって、イエス様をお迎えすることは自然であったと同様に、イエス様にとってもそこに行くことは、得難い喜びでした。
そのような家庭は、人がこの世で持ちうる最善の財産であります。成功や、人生の喜びは、富や、名誉や、力の中にあるのではなく、「神との平和を得ている」ことにあり、魂の平和、家庭の平和、そして現在神様から与えられている富を、全ての人と分かち合い、支え合うことに喜びと感謝を、あの「べタニヤ」を日々の生活で示していたのです。
イエス様に今生かされていること、そうして生きていることに感謝し、家庭・家族の中にイエス様の愛を証しすることを喜ぶことは素晴らしいことです。とは言え、私たちは醜い心、自己中心で、本当に罪み深いものでもあります。そこから救い出されるその秘訣は、ただ一つ、「祈り人へと成長させていただくこと」です。日々の歩みの中で、今を感謝の思いにさせられることです。思い出し祈りの時もあるでしょう。忘れていました祈りもあるでしょう。困った時のみの神頼みの時もあるでしょう。今年のはじめに、聖書の通読を決心して始めても、中断、断続もあるでしょう。
そんな不信仰者にもイエス様との出会いがあります。思い出し読みでも良いです。短い時間でも心で読みましょう。
「べタニヤ」の家庭は、そのことをお示し下さいました。キリスト者は、そのことを感謝して知るからこそ、主にある家族、夫婦、兄弟姉妹が与えられることを願ってきましたし、これからも願い続けるでしょう。
(聖書をお持ちの方は、ぜひヨハネによる福音書11章1節から12章25節までをお読みください)。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」