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十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御名=
第一の祈り②・神を崇める
マタイ19:16
前回は大教理問答の190問の答えから、御名が崇められるのに私たちが「無能力と無気力」であるという前提を学びました。復習の意味でその現実を考えてみましょう。
例えば、アダムとエバの堕落は神の命令よりも自分たちの誉れを重んじたために起こりました。カインがアベルを殺しましたのも、カインが自分の供え物を神に受け入れられなかったことに腹を立てたためでした。アブラハムに始まるイスラエルの民の歴史は、神の恵みの選びに始まったにもかかわらず、全体としては、神よりも自分たちの誉れを重んじた歴史です。
イスラエルが主イエスを拒んだのも同じ理由からです。そして、私たちキリスト者の信仰生活においても、無意識のうちに神の誉れよりも自分の誉れを重んじているのです。
そうなると神が崇められることが私たちに最も大切なことでありながら、それは最も難しいことであることを理解した上で、努力することが、私たちキリスト者にとって、大事なことであることを知らされます。
それはどうしたら可能になるのか、聖書に記されている一人の人のことから、具体的に考えてみましょう。それで、読んでいただきましたのは「富める青年」のことです。
まず、主イエスは彼を軽蔑したり、叱責したりして言われたのではありません。マルコによる福音書には、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」(10:21)と記されています。しかし、主はこうも言われました。
「もし完全になりたいなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人びとに施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」(マタイ19:21)。
主は12弟子にもこのように言われたとは記されていません。この青年にだけ言われました。それは彼が自分の財産に特に支配されていたからでしょう。彼は若いし、誠実であるし、人々の信頼もあったため、最高法院の議員になれたほどでした。社会的に尊ばれていたでしょう。でも彼がキリストの弟子になれない大きな欠陥がありました。それは自分の誉れを財産としていたことでした。主は彼を財産から解放する必要がありました。
しかし、主は彼にただ財産を貧しい人々に施すことさえすれば、永遠の命が得られると言われたわけではありません。この命令は財産に勝るものがあることを彼に教えるためでした。それは何かといえば、「それから、わたしに従いなさい」(21)ということでした。
彼が財産の支配から解放され、主に従っていくなかで、主の十字架の死と3日目の復活と、そして40日後の昇天を見ることになります。そして、その意味を理解し、主を信じることになります。永遠の命を与えられた自分に気付きます。伝承によりますと、この富める青年は、のちに使徒たちの足元に土地の代金を置いたバルナバ(使徒4:37)だと言われています。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」