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「今月のことば」
わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
=ヨハネ11:25=
真実な愛
真実な愛がない心から 出てくる行いを見ないで
真実な愛に満ちた主の その御業を見つめて歩めよ
真実な愛がない心から 出てくる言葉を聞かないで
真実な愛に満ちた主の その御言葉を聞いて歩めよ
真実な愛がない心から 出てくる力に頼らないで
真実な愛に満ちた主の その御力たのみて歩めよ 水野源三
今、一番忘れてはならない出来事はクリスマスと共に、「イースター」です、と言えば、多くの人は不思議に思うことでしょう。しかし、ゴルゴタの丘で十字架の上で処刑された主イエス・キリストは、このイースタ―で約束されたことの成就、復活を信じる人々が待ち望んでいた「よみがえり」を証しされたのです。
イエス様の死と葬りは、弟子たちや救い主と信じて従って生きてきた人々にとっては暗黒であったでしょう。しかし、不安と絶望の中にあっても、イエス様のお約束を待っていた出来事、この「よみがえり」は、言い尽くせない喜びであったことでしょう。
希望の拠り所を失い、消えてしまった墓の中のイエス様を見た者にとっては、立ち尽くし泣き崩れるしかありません。「絶望」とは、「望みを失うこと」です。
大きな死の力は、主イエスをも飲みこんでしまいました。人間の体が土となりはじめていた墓から、生ける人を呼び出されたあのイエス様が死なれたのですから。
3月号の「今月のことば」、べタニヤについて考えましたが、「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」とマルタはイエス様に申しました。今日も、今も、人々はこの叫びを言います。しかし、イエス様はお答えになります。
「もし信じるなら、神の栄光を見るであろう」。イエス様はこう言われた直ぐ後で、死んだと思われていたラザロは生きて、家族の群れの中に立ちました。「絶望」から「希望・喜び」変わったのです。今、この主のお約束を信じて待つだけの信仰を持つ者は、すべてのことが、喜びに代わることを信じることでしょう。
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」
このみ言葉の成就こそが「イースター」なのです。
詩人は謳いました。
人みな喜べ、主は生きたもう。
主をたたえよや、救われしもの、主をほめたたえよ。
罪も死も、地獄もそのいきおいにひれ伏す。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」