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バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
20 最後の奉仕・・1・・
1930年(昭和5)頃、豊橋教会(現日本基督教団)の牧師館の北側に二階建て35坪で建築した。マカルピン師の祈りと協力によって出来上がった。マカルピン師はその任地先でこうした記念物を残されて教会自立への道を開かれた。
1929年(昭和4)9月1日、マカルピン師の子息J・A・マカルピン氏は成長して、オランダ系アメリカ リフォームド教会の短期宣教師となり、長崎の東山学院中学部の英語教師と同ミッションの会計助手として来日された。父マカルピン師にとっては、これはたのもしく力強く感じられたことであろう。この東山学院は長崎市東山手町9にあり、明治19年19月9日に創立されたダッジ・リフォームド・ミッションの設立で、校長はW・G・ホキエ氏で、在校生は320名であった。
1930年(昭和5)、68歳の夏のこと、マカルピン師に思い掛けない病気が突発したのである。マカルピン師は避暑地でテニスを楽しまれたが、テニスコートで仲間と祈祷礼拝を守り、その奨励中、頭の中で「カチッ」という音がしたかのような感じがして、倒れるような不安を覚えながら手短に話を終わらせて、友人のボールティンさんに終わりの祈りをするように話してからのち、彼の腕によりかかって家に帰ったのだが、左足はしびれを感じ、数週間ベッドに休んで用心した。
自分自身それほど悪いとは思わなかったのに、その左手も思うように動かすことが出来なかったのである。やがて杖の力を借りて歩けるようになったが、当時は左手でタイプライターを打つことも出来ず、全て右手だけで仕事をしなければならなかった。
この年の終わり近く、後にJ・A・マカルピン氏の良き伴侶となられたミセス・マカルピンこと、ポーリン・H・スミス女史も、11月25日、米国メソジスト教会の宣教師として、長崎活水女学校の教師となるために来日された。同じ長崎の町に、同様なミッションスクールの教師として、将来結ばれるべきお二人が、時を同じくして一つの使命に召されて奉仕されたことも興味あることである。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」