[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくはみ名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御名=
第一の祈り③・御名が崇められることが中心
マタイ6:5~8
「御名を崇めさせたまえ」という祈りが最初に来るもう一つの理由は、その後に続く第2祷から最後の第6祷までが、この御名を崇めさせたまえという第1祷の具体的な内容の説明だからです。
例えば、第2祷の「御国を来たらせたまえ」と祈ることが、御名が最も崇められる具体的な内容になるからです。御国とは神の国ですから、それは神が支配しておられる国であり、神の支配に服している民からなっています。従って,「御国を来たらせたまえ」という第2祷は、神の民が神の御心に服することを求める祈りです。そのような神の御心に支配されることが実現するなら、そこでは何よりも神の御名が崇められていることは明らかです。つまり、主の祈りは、この第1祷に尽きると言ってもよいのです。しかし、主は理解の鈍い私たちのために、具体的にその内容を第2祷から第6祷までをもって教えてくださいました。
このように最も大事なことは、言わば結論を最初に挙げて、その後は内容の説明をするという順序は、物語を語る時の順番とは逆です。しかし、聖書には教えを語る場合、最も大事なことを最初に挙げて、その内容や説明がその後に続くということは、よく注意して見ると多くあることに気付きます。
旧約と新約から、その実例を挙げてみるとよく分かります。例えば、モーセの十戒を考えてみましょう。確かにこれは十の掟が記されています。しかし、中心は何か言えば、第一戒です。「わたしのほかに何者をも神としてはならない」という戒めが守られれば、具体的には、神の名をみだりに唱えることも、刻んだ像を造ったり、拝むこともないでしょうし、安息日を聖別することも当然です。そして、神を畏れ敬う者であれば、隣人に対しても神の御心を行う者として、第五戒から第十戒を守るよう努めることも当然のことです。
例えば、使徒パウロの場合を見てみましょう。彼は、人間関係の基本的な原則として、エフェソの信徒への手紙5章21節で、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と先ず語ります。その上で、この命令の実際的なこととして、「妻たちよ」と22節で、「夫たちよ」と25節で、「子供たち」と6章1節で、「父親たち」と4節で、「奴隷たち」と5節で、「主人たち」と9節でそれぞれ説明を加えています。「キリストに対する畏れ」敬いが薄れ、自意識が強く、自分の思いが中心になるので、パウロはこのように語りました。
同じことは、主がこの主の祈りをお教えになるきっかけも、「偽善者のようであってはならない」と言われて、偽善者の特徴は「御名を崇める」のとは正反対であって、自分の誉れのために行動しているのをご覧になって、弟子たちへの教育のために、この祈りをお教えになりました(マタイ6:5~8)。このように、主の祈りで、最初に来る「御名を崇めさせたまえ」が祈りの中心であるということです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」