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「今月のことば」
わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
=第二 コリント 5:7=
桜の花びら舞う季節から、美しい緑の若葉の季節を迎えることができました。悲惨な戦争は、どうしてこうも繰り返して起こるのでしょう。悲しみからは決して希望は生まれません。国と国との戦争も人と人との諍いも同じであることを体験、経験しているのに繰り返してしまいます。悲しい現実です。
そのような今、この、「今月のことば」が与えられました。祈り、神様のみこころを探しつつ、皆様と共に考えていたいと思います。
この世という荒地、苦難の道を通って生きるのが信仰者と言われる時、恐れ、慄き、たじろいでしまいますが、それでもキリスト者の巡礼の旅は、信仰によって歩むことを、愛と励ましの思いでパウロはしるし、救い主を指し示しておられます。
だれもが天国や再び来られる主イエス様を待ち望んでいます。また、私たちの心、信仰には「見たことのないかたを愛している」者でもあります。
私たちの信仰は、神の御約束の言葉に立つ信仰であり、足であり歩みであります。また、キリストとその十字架をとられて放さない手でもあります。その手と足は、悲しみをもたらす戦いのためのものではなく、悪(サタン)と戦う剣であり、あたかも目の前に立ちはだかる敵に立ち向かう手でもあります。もし、キリスト者が自分の力と知恵に頼り、立ち向かうなら、勝敗は明らかです。しかし、しっかりと見えざる神の力に心を向け、しっかりとそのみ霊の力を頂いて立つなら、勝利以外にありません。
信仰者は、時に思い上がり者であり、自己過信に陥る者でもあります。しっかりと掴まるものもなく、立つ足を失うなら、その人生は目的を失うことであることを、決して忘れてはなりません。私たちは無力であることを認め、信仰に立って歩み、生きることは、「わたしたちは地上の生涯を信仰によって絶えず貫かれなければならいという巡礼の道」でもあります。パウロは心から言いました。「わたしは信仰を守り通した」と。
その告白は、パウロだけのものではありません。私たち一人ひとりのものです。主イエス・キリストとの交わり生きる時、み霊なる神様は、決してその歩みを、お忘れになることはありません。それは神の救いのみわざそのものだからです。
このみわざは主のもの、信仰の賜物は神のみ恵みなのです。 アーメン
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」