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バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
20 最後の奉仕・・2・・
いよいよマカルピン師にも、その宣教師の奉仕を終えて、日本を去られる隠退の時がやって来た。
1932年(昭和7)3月5日、マカルピン師の満70歳の時である。しかしマカルピン師の後継者であるラ-ドナー・モーア夫妻が休暇から日本に帰るまで隠退の日を待つようにとのことで、半年ほど帰米を延ばすことになった。
春から初夏にかけてマカルピン師の隠退と帰米を惜しむ各地の教会での送別会が盛んに開かれた。日本伝道47年、それは決して短い歳月ではなかった。ようやく自転車が日本にも用いられるようになったのが明治の中期、鉄輪の自転車では道の悪い山坂を走ることも出来ず、手押しで坂道を運ぶことは大変な苦労であった。
ベビーオルガンを乳母車に乗せて運び、田舎町の街角で日本の補助伝道者と一緒に路傍伝道を盛んに試みたことも、マカルピン師にとって忘れ難い思い出であろう。高知県、神戸、愛知県、岐阜県、そして朝鮮とその足跡の至る所で、温容なマカルピン師の眼差しに触れ、誠実な交際と親切、そして小さな集会場のための運営と奉仕を続けた47年である。
謙遜は神の下僕として、人の足を洗うことも辞さなかったマカルピン師の影響感化は、今もなおこれを知る人の心に忘れることなく印象付けられている。先頃、筆者は中津川で「自由民権運動とキリスト教」の系譜を調べるため、この町の一自由民権運動家がキリスト教に接していたというので、その人物を知る古老に、そのことをただした時、「黒い服を着た背の高い外国人でカトリックの坊さんのようでした」との答えで、腑に落ちないまま歳月が経過した。たまたま市の名誉市民であったH氏が旧家であり、旧事を語り合っている時、「その民権家は私の縁者です。そこに出入りしていたのはマカルピンさんですよ」との言葉に町の有力者の中にもマカルピン師との繋がりと影響があったことを知ったのである。地に蒔かれた福音の種は私どもの知らない所で、水注ぐ者の手を待っていることを教えられて、自らの怠慢を恥じた。
先輩宣教師方が、どこに福音の種を蒔いたのかも確かめようともせず、実らないのはその宣教の失敗と決め込んで省みようともしない、後継者の牧師、伝道者でなければ幸いである。一生を捧げ、親・子・孫に至るまで、キリストを愛し、日本を愛して主のために力を尽くした先輩宣教師の足跡を辿ることも、また無駄ではなかろう。
この年8月、長崎にあったJ・A・マカルピン氏も、米国のウエスタン神学校に入学のため帰米された。10月1日、マカルピン師は横浜出帆のノルウエー号で明け方出航した。嵐のために出帆が一日遅れたのである。船は太平洋を渡り、サンフランシスコからパナマ沿岸を下ってパナマ運河を通り、キューバの東端からコロンブスが上陸したサン・サルバドルの記念碑を望み、やがて35日間の長い船旅をニューヨークで終わった。そうしてウエストンセーラムに11月14日、無事に着いたのである。
マカルピン師はそこで3か月ほど滞在し、その後ノースカロライナ州エキソンの伝道所で奉仕し、その教会の会堂を建築し、会員も50人ほどに成長し、定住牧師も与えられるまでになった。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」